希望と絶望のボランティアワーク

「ボランティア」を勘違いしていないだろうか

   災害が発生したとき、「ボランティアが不足している」という報道があった。それに対して、「『ボランティアが不足』ってナンだよ」という声がTwitterで散見された。本来、「ボランティア」は文字通りボランタリーな気持ちに基づく自発的な行為であり、労働力という観点からは「いればプラスになる」存在であり、決して「いなければマイナスになる存在」ではない。「その必要数を事前に想定して、『必要数に対する不足』を嘆くことそのものが、「ボランティア」の勘違いではないか」「本当に必要ならば、有償で業者に発注すべきではないか」という指摘がなされたのだ。

  災害とは違うが、僕自身、ボランティア(本業と言えるものが他にあって、他の用事を自分の都合で優先させることができるという点で『責任』がない人)の協力を多分に得てプロジェクトを進めなければならない、という状況における難しさを感じている。ボランティアが、「来る」と言っていた時間に来ないことはもちろんあるし、来ることになっていたのに、連絡なしにドタキャンということも起こる。困る。もともとはその人にやってもらおう、と役割を「ご用意」していたのに、来ない。事前にその人が何らかの役割を担うことになっていたら、問題は大きくなる。他の人に穴埋めしてもらえるような役割でもない。ボランティアが来ないからと言って、嘆いても仕方がない。これは「ボランティア」を「無償の」という部分だけが一人歩きした結果だ。ボランティアにまつわる「協力してもらう側」「協力する側」双方の認識に問題がある。

 

ボランティアは「使う側」に不都合だからこそ、ボランティア

   ボランティアを(非常に悪い言い方をすれば)「使う」側にとって、ボランティアは基本的にもともと不都合な存在だ。責任がないからだ。さらに言えば、不都合であるからこそ、ボランティアたるのだ。何度も繰り返すがボランティアはボランティアであって、責任がない(「一社会人として」などという説教は一旦脇に置いて)。ボランティアはあくまでもボランタリー(自発的)なものであり、かつ無償である。そこに責任(先述の通り)を持たせるには、有償でないといけない。ボランティアは、責任がないからこそ、ボランティアたるのであり、あくまでも「好きな時に来て、好きな時に帰ってよい」存在である。ボランティアを「都合の良い無償の働き手」などと考えているうちは、結局金銭以外のところで高いコスト(発生した問題解決にまつわる諸コスト)を払う羽目になる。じゃあ、無償でずっと都合の良いように動いてくれれば良いかと言われればそうでもない。先述の通り「不都合」でなければさらに不都合だからだ。

 

タダより高いものはない

 「協力する側」が「タダで働くからには」と(金銭以外の)見返りや承認を求める意識が発生したり、「使う側」が「タダで働いてもらうからには」と金銭以外の見返りを用意したくなる気持ちが発生したりする。「好都合な無償の働き手」が今度は心的な重荷になる。そのような関係には明確な基準もなければ終わりもない。長く続けば続くほど、ジワジワと体力を消耗していく。どうしても返報性の原理が働いてしまいそうになるが、あえて、ボランティアはもてなしてはいけない。

 

ボランティアワーカーにとっては希望

 ただ、ボランティアを「する側」にとっては希望もある。責任がないからだ。

イベントの協力依頼・参加の“依頼”(皮肉)、地元系アプリを介したお手伝い募集、その他、どこかの誰かの「要請」は探せば結構転がっている(町内会とかPTAは、無償×責任のコンボになりそうなのでちょっとグレーか)。履歴書もなければ面接もないので、責任も報酬もない代わりにちょっとの勇気さえ出せばヌルッとスルッと人の集まるところに入ることができる。ボランティアなので仕事レベルのスキルが求められることがない。責任のない仕事がゴロゴロ転がっている、ということは、自分のペースに合わせて、好きな時に行って、好きな時に帰るスタイルで、かつボランティアを募集する団体・チームの信用を使って、個人としての自分のスキルや経験値を伸ばすことができる。そこで発揮した働きが評価されれば、新しい依頼が入入ったり、そのスキルや経験が、個人・会社問わず仕事に結びつくかもしれない。そうやって自主的な「丁稚奉公」をすることで、責任のないところで、基本的に自分の好きなように、(広義の)社会経験を積むことができる。

 

 注意しなければならないのは、ボランティアと「タダ働き」を分けるものは自分の中に意味づけがあるかどうかに委ねられるところだ。社会的意義などに惑わされることなく、あくまでも自分にとってその経験がどのような意味を成すかを積極的に設定(「純粋な楽しさ」を含む)して、他者からの承認を得るためではなく、自分のために、行う点だ。