資本主義社会下では、簡単に「世間の住人」になってもいけない

 『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』という本を読んだ。この本を手に取った理由の一つは身近な人が根っからの「世間の住人」であることだ。「自分はこうしたい」という意見を持たず、「世間では」とか「周りが」とか「〇〇という人もいる」という理由でことごとく足を引っ張ることに腐心する様を見たからだ。そればかりでなく、昨今のコロナ禍にあっても、「他人と違う行動をとる」ことがウイルスおよび不安の“感染”予防につながるにもかかわらず、

それでもやはり「他の人と同じ」であろうとすることには「世間」の同調圧力の存在を抜きにして語ることはできないと考える。では、日本で生まれ育った僕自身も全く無関係・理解不可能ではない、しかし「世間」という得体の知れないものは果たしていかなるものなのだろうか?そこから何かしらのヒントが得られるのではないだろうかと思った次第だ。

 非常にざっくり言うと、読後、僕は「世間」についてこんな理解でいる。日本人の文化にはキリスト教文化のように「告解」を通した自らの内面の表出がないため、そこに「自己を発見する」ということがない。内面の表出によって自らを認めることができないため、承認を他者に求めることになる。それこそが、自分の存在証明になる。さもなくば、「存在論的不安(『どうして私は生きているのだろうか』という類の問いに苛まれること)」に陥る。それを全力で避けるために、「世間」というものを設けた。それに従っている限りは、所属意識からくる安心を得ることができる。所属するコミュニティの秩序も保たれる。

 資本主義社会が台頭するより前は、それでもよかったのかもしれない。資本主義社会が台頭して以降、「世間」は資本主義社会における「強い個人」を前提にした行動原理に「アレルギー反応」を起こした。「そもそも個人というものを『世間』社会は持ち合わせていないのに、どうしろというのか⁈!」結果、「世間」は内部の結束(絆)を強めて、「ウチ」と「ソト」を明確に区別するようになり、「ソト」の者は徹底的に排除するようになった。「ソト」の者を排除することがまた、「ウチ」の結束強化につながった。つまり、資本主義社会の台頭に伴い、それまで持っていなかった「個人」を突然求められた「世間」は、「アレルギー反応」として「いいや、個人なんてあるわけないでしょwww」とばかりに個人の存在を認めない者同士で結束し「世間」の色を一層強め、「世間」から外れる者は徹底的に排除するようになったのだ。そこからの排除を恐れれば、多くの人が「世間」になびくことは一理ある。

 だとすれば「世間」の結束、「ソト」の排除に対抗する方法は二つある。ひとつ目は、資本主義を何らかの手段で終了させる、というものだ。これはほぼ不可能と言っていいだろう。もう一つは、あくまでも「個人」を手に入れることだ。この本によれば、「個人」を手に入れるためには「内面」の発見が鍵になる。

 僕たちはこの、スマホと共にあった10年間、日常的に自分の思いを匿名で「つぶやく」ということをしてきた。「告解」とSNSとで多くの場合異なるのが、フォロー人物・フォロワーのポストが、内面の表出先となる自らのタイムラインに並んで表示されてしまうことだ。それは、また新しい「世間」でしかない。理屈の上では、誰もフォローせず、自らのつぶやきに徹した場合に「告解」的な役割を果たす。しかしそれはなかなか難しい(僕は持ったことがないが、非公開の「裏アカ」ではそれが達成されるのだろうか?)。「つぶやく」代わりに、自分の内面を、それこそ、誰の目にも触れてはいけないような内面の告白も含め、ノートに書くことはそのための有効な手段になると考えられる。かくして認識した自分の内面を土台に、「僕は、こう思う」「あの人は、あのように思う」と(善悪や価値判断はさておき)区別することが「個人」獲得のサポートにならないだろうか。そうして得られた小さな小さな「個人」の芽が、孤独で弱いながらも「世間」という「共同幻想」の「対幻想」としてまずはポンとボールを投げることにつながる。

 僕は曲がりなりにも「地域」というものを研究テーマにしている。さらに言えば、「嫌にならない地域付き合い」だ。「世間」を考えることは、「嫌にならない地域付き合い」を考える上で非常に重要だと考えている。その、「地域」には冒頭に述べたような「根っからの『世間』の住人」が少なからず存在する。根っからの「世間」の住人の個性はまた、根っからの「世間」の被害者だ。「世間」の被害者はまた、被害者の顔をして新たな被害者を生み出す、ゾンビのような存在だ。ただ闇雲に「失った昔ながらの絆を取り戻そう!」というスローガンのもとでは、自他の境界線が曖昧になった、「世間」の住人が湧くだけだ。良くも悪くも人とのつながりがある故に、資本主義の煽りを受けて排他的側面を強めた「世間」のはびこりやすい「地域」というものが、より過ごしやすい場所になるために、僕たちは簡単に「世間」の被害者になってもいけない。