ブルシット・ジョブは日本固有のものではない?

 いま話題の本『ブルシット・ジョブ』を半分くらいまで読み進めた。まず驚いたのは、ブルシット・ジョブが日本に固有のものではないことだ。この本を読むまで僕はてっきり、いわゆるブルシット・ジョブ的な仕事は終身雇用と年功序列に代表される「日本型雇用」の産物であると思い込んでいた。さらにこれまた日本固有のと思われている「世間」の相互監視・同調圧力などが、しばしば槍玉に挙げられ (ながらもあまり変わらない?)る日本における生産性の低さの原因だと思っていた。ところが、しばしば働き方や労働観の理想として持ち出される、欧米をはじめとした諸外国においてもブルシット・ジョブは存在する。それが多くの人を苦しめている実態がこの本では書かれている。

 仕事がブルシット化する理由と人びとの苦しみは、すごく大まかに言えば、こんな事ーーリアル・ジョブ(実質的な仕事)はシステム化され、そこから人間は疎外された。システムの欠陥を埋めるものとしての仕事(その多くがブルシット・ジョブ)を人間が担わなくてはならなくなり、人間はすっかりシステムの奴隷と成り下がってしまった。いま自らが従事している仕事は、(組織のネームバリューが与えてくれる誇りがなんとか自らを仕事につなぎとめてくれてはいるが)他者貢献の本質とはかけ離れていて、その仕事からは貢献感も、誇りも得ることができない。そのような仕事は暇であってもなくても退屈であり、もっとひどい時は、自分が仕事をすればするほど結果的に他者に害を与えることを知ってしまい、その罪悪感に精神と魂を蝕まれるーーなのだろう。

 これをさらに噛み砕けば「仕事そのものはラクになったが、やりがいを失った」ということなのだろう。それならば本当は、(やりがいこそなくとも)楽になった分生産性は向上し、労働時間は短くなるはずだった。たとえ拘束時間内であっても、早く終わればその分を好きなことに充てるとか、コーヒータイムをたっぷりとるとか、アルコールも飲んじゃうとか、そんな国・そんな職場がある、という記事を読んだことがある。とりたてて「世間」というものが存在しないと考えられている諸外国において、「働いているフリ」は無用だと僕は考えていた。しかし、本書において多くの人が「働いているフリ」を(外から、ないしは内なる声から)強いられるというのだ。自分の・他人の、暇を許すことが誰しもできるわけではない、というのだ。

 「暇」(および余裕)というテーマを考える上で、僕は冒頭で述べたような日本に固有の悪習(ちなみにそれらは、それらに乗っている限りにおいて人間平等主義に基づいたある種「やさしい」システムでもあるのだが・・・)の改革こそその鍵だと思っていたが、この本を読むにもっと違う角度からも考える余地がありそうだ。

 

今日はいったん、ここまで。