「順番にどうぞ」問題

 突然だが僕は会議などで「順番にどうぞ」というスタイルで順繰りに喋っていくというやり方がくそ程に苦手であり、嫌いだ。僕はそのような会議のあり方がむしろ人々をコミュニケーションから遠ざける要因にもなってしまうことを指摘したい。

 普段のコミュニケーションは「●●を伝えたい」という意志(僕はこれを「コミュニケーション意志」と呼んでいる)をスタートに始まる。そのタイミングは基本的に、伝えたい内容が心に生じた時だ。それに対して、「順番にどうぞ」下ではそれは基本的に無視されている。喋りたいタイミングは奪われ、発話にイニシアチブがない。発話の形をとっていながら、そこには発話の主体が不在だ。何かのきっかけでAが発した言葉にきっかけを得たD(「B」でないのは順番を意識しないため)がそれに関連して伝えたいことをつなげていくのがコミュニケーションならば、「順番にどうぞ」はその対極と言っていい。「順番にどうぞ」状況下で、おそらく少なくない人が、仕方がないから、大しておもしろくもない「それらしい」ことを喋っていく。そうして会議は進んでいく。かくして、会議はくそになる。

 順番に自己紹介をする、という場面を思い出してみてもらいたい。「〇〇です。よろしくお願いします。」という流れの中で、一体何人の名前を覚えることができただろうか?頑張ってメモでも取って覚えたフリでもしてみようと思っているうちに、メモが追いつかなくなるかもしくは気持ちが追いつかなくなるのは想像に難くない。そして人数が増えるほど、名前を覚えるのが難しくなるのは必至である。自己紹介はそれぞれのことを知るのが目的なのに、「あの人は〇〇さんで、あの人は■■さんで…」とか、「自分のターンに何を喋ろう」とかいって注意が拡散した結果「結局誰の名前も覚えられなかった」ということも珍しくないはずだ。

 順番に参加者それぞれのトピックを喋る場合のことも考えてみたい。先に述べたように、自分のターンのことを気にするのはもちろんのこと、「順番にどうぞ」状況下ではそれぞれのトピックが終われば話はハイ終わり、次のトピックとのつながりがない。関連がないから、なんとなくメモを取って参加したふりをしてみても、大して内容が頭に入らないか、入ったとしても断片的な情報か、もしくは後につながらないかだと僕は考えている。

 それでも、「(会議を開いて)顔を合わせることが大事であり、会話の内容はどうでもいい」とか「会議が手段でなく目的になってもいい」と思う主催者はいると思う。そこに大きな問題がある。「順番にどうぞ」式の面白くない、身にならない、時間の浪費とも思われる会議を開き、参加者がただ不快な思いをして帰ることになるという印象が植え付けられてしまった結果、ますますコミュニケーションから遠ざかってしまうのだ。「顔を合わせることがコミュニケーションのために大事」と、本来はコミュニケーションの一手段としての対面を目的にしてしまったために、「この方法でなら、自分の意思を表明しないでおこう」と思うなら、意思疎通はますます実現しないだろう。

 それにも関わらず、考えなしにこのような「順番にどうぞ」スタイルが踏襲されているのは、それが一応、(大したアジェンダがなくとも)会議のテイを成すことになんとなく一役買ってしまっているからだろうし、仮に大した成果に結びつかなくとも「誰も何も言わない」という最悪の事態だけは免れるからだろう。「順番にどうぞ」は主催者目線の方法でしかないのだ。

 たとえコロナ禍において会議のオンライン化が進められようとも、「順番にどうぞ」といって参加者全員に喋らせるのが目的のような会議ならば、それは情報共有という観点からはあまりにも非効率すぎる(結局、テキストの方が十分に時間をかけてまとめたり、のちに保存できるから)。コミュニケーションとしても結局「コミュニケーション意志のない、当事者(せいぜい、主催者だけが当事者の)不在の」質の低いやりとりに終始し、結局(同期型コミュニケーションという性質上)参加者の時間を浪費するものに成り下がる。本当に「意思疎通」を図りたいと思うならば、なんとなく当然視してきた「順番にどうぞ」式を見直さなければならない。「コミュ力」などと言って対面コミュニケーション力だけがもてはやされるが、コミュニケーションの手段は(ICTの発達した現代社会においてはなおさら)実は山ほどある。