問題の当事者は誰だろうか

 自分は問題だと思っていないことを指摘され、問題の当事者に「される」とき、そこには当事者性がなくなり、結局、自分の感覚を頼りにしなくなるということを指摘したい。

 

 先日近くの湖でボート(競技用)を漕いだ。僕には大学で4年間やってきたにも関わらず、最後まで直すことができなかった癖があった。それを久しぶりに乗って思い出した。引退から7年経ってもそのままで、それが実際に漕ぎにくさにつながっていたからだ。数日してもう一度漕ぎに行った。少しの時間だったが、選手だった当時は気づくことができなかった改善のヒントが得られた気がしたのだ。それからというものの、ボートを漕ぎたくて仕方がない気持ちでいる(しかし残念ながらボート場は程なくして秋冬季閉鎖に入ってしまった)。

 

 僕には選手時代にちょっとした後悔がある。ボートは感覚のスポーツなのに、自分の感覚をもうひとつ頼りにできなかったことだ。自分はそれほど問題に思っていなかったことについて、陸上から漕ぎを見ているコーチに「お前はこの部分が下手だから、そこを集中的に練習して直すぞ」と言われることを繰り返すうちに、コーチの目に悪く映らないような漕ぎ方のフォームを追求したことがあったことを覚えている。当然、全くの素人に基本型を教えるのは難しいし、それをしてくれたのは紛れもなく諸先輩でありコーチ達だ。その人々を責めるつもりは毛頭ない。しかし、自分の問題意識を超えた問題を指摘され続けるうちに、自分の感覚を捨ててしまっていたこと、他の誰かが当人の問題意識を越えて熱心な善意で「正しいことを教える」ことそのものは感覚のスポーツをする上でマイナスだったと思う。良し悪しの判断を「コーチの目」に委ねてしまった時のヴィジョンは今でも覚えている。

 もちろん、競技時代と趣味でやる時とではボートへのコミットメントが全く異なる。ボート漬けの日々が、そうだな、2年目にも入ってしまえば、あとは自分で気が付かない漕ぎ方の癖を、誰かの目を頼りに直して「もらう」より他ない状況にあったかもしれないと振り返ることはできる。それに、最後に「より良い」感覚を掴んだ時の乗艇時間はせいぜい30分だ。冒頭で述べたように、7年も競技から離れていた人間がポッと思い付いた/気がついたことが、ドラスティックな変化をもたらすアイディアであるはずがない、と言われればそれまでだ。

 ただ、それにしても選手当時は過密なスケジュールの中で自分で考える余裕がなかった。そこに自分より「見る目のある」人の指摘が入れば、問題への当事者性はあっという間にかっさらわれてしまう。そうすると、どんどん自分の考えとか感覚を捨て、「コーチに従っていれば良い」という選手が生まれてしまう。

 本来、コーチからは「おれは、おまえのこの部分がやりにくそうに見えるんだけど、どう思っている?」という問いかけが(たとえ、その指摘が99%正しいと思う気持ちがあってもだ)あるべきだと今では考える。それに対して、「いいえ、特にそういう風には思っていません」と答えがあれば、一旦その問題はスルー、当人が問題を感じている部分に取り組むし、「確かに、そこ、やりにくいと思っていました」と答えがあれば、そこで初めて、一緒になって問題改善に取り組む。そういった、問いかけと反応が間に挟まってこそ、当事者性を保ちながら、問題解決に向かっていけると思う。何より、競技が楽しくなる。そのコミュニケーションの下地(心理的安全性・言語化能力・信頼関係など)もまた、整えられなければならない。

 

 これは競技に限った話ではない。いま僕は曲がりなりにも「支援者」の立場にいる。たとえ自分の知識から「絶対に使ったほうがいい」と思うような制度やサービス、その他自分が学び・知り得た方法があったとしても、本人の問題意識を置き去りにして問題を「解決」してやろうというあり方からは、当人が今後自分で考えて納得いくようなライフタイムを送っていくためのサポートは生まれないと考えている。それどころか、早々に自分の考えや感じていることを捨てさせることにつながるとさえ思う。「競技は遊びじゃない」「支援は『仕事』」などという御託に屈服しないための対抗原理と、なんのための「支援」なのかのヒントを、僕は上記の経験から得た気がしている。