「世間」出身者もケアされないと先に進めない

 「世間」はある種の宗教のようなものであり、生きていくための振る舞い方(のうちの一つ)を示してくれるものだと僕は思っている。ある特定の社会を超越するものとしての「世間」のルール(※1)にハマっている限り、突然知らない人の社会に放り込まれても、とりあえずの身の置き所を示してくれるからだ(※2)。程度の差こそあれ(日本の?)社会全体に、明文化されることなく浸透したそのような「世間」での各人のあり方が教育を通じて後世に連綿と続いていくことで、社会にある一定の秩序をもたらし、存在論的不安から人を救ってくれるーーそんなシステムとして、「世間」は機能してきた(している)側面があるのだと解釈している。世間に従っておけば、とりあえず、コトを運ぶことができる。たとえ不本意であれ。

 「世間」には上記のようなメリットがある一方でデメリットもある。『世間学への招待』という本の背表紙にはこんなことが書かれている。

「世間の目」「世間体」という言葉に端的なように、われわれの生活・思想を統制するシステムとして、ときには差別的・暴力的に機能し、多くの弊害や軋轢を生み出している。

この記述は「世間」には差別と暴力が横行しているということを暗示している。そしてその「世間」の色の強い、差別と暴力のまかり通る社会をなんとか我慢して過ごしてきた人々にとって、「耐えぬいて今までやってきたこと」は、たとえその中でいくら惨めな思いをしてきたとしても、「耐え抜いたこと」それ自体が自負となっている。その自負を裏付けるのが「ひたすら、耐えること」であり、「こんなに辛いことを耐えられる自分は大丈夫」という(歪んだ)万能感を生む。個人でそう思ってくれる分には問題ない。問題は、世間のあり方が職場やその他共同作業の場にまで持ち込まれることだ。どこのだれとも示すことのできない、極めて抽象的な「世間」対策のために、「〇〇という人もいるかもしれないから」「世間が許さないから」と、「世間」の人々全てを納得させるという不可能なことを実現するために、本来ならばやらなくてもいいようなことにエネルギーを割き、その結果、余裕をなくすことだ。さらに厄介なのは、「(苦痛に)耐えること」がますます彼らの万能感を強化しうることだ。「世間」は「頑張っている人」「苦痛に耐えている人」をいじめはしない。その場合、頑張り・忍耐の成果は全く問われない。それどころか「頑張った(耐えた)のに、ダメだった」となってはじめて、「仕方がない」となる。

 「耐えるのをやめて、もっと楽にやろう」「もっと自分たちのやりやすい方法を提案していこう」という言葉は、ばちばちの「世間」出身者には、そのままでは多分響かない。自らの万能感の源:「(苦痛に)耐えること」をそう簡単に手放すことはできない。それどころか、「世間」出身者をも楽にするはずの論理であれ、「耐えぬいた」過去を否定されたと受け取られれば、そのような主張をすること自体が、迫害の対象となる可能性を生んでしまいかねない。

 (差別と暴力という装置のおかげである一定の秩序が保たれている)世間を我慢して渡ってきた人に対して、具体的に「なぜ、それをしなければならないのか」と言って、その必要性を否定することで「やらなくてもよい」「もっと楽にやれる方法がある」と言うことはできる。理屈では「勝て」てしまうかもしれない。ただ、昔、彼/彼女のいた社会において「耐えて、耐えて、耐え抜いた」過去の経験に対して「それが、無駄じゃなかった」「当時は、明確な意味があった」「そのおかげで、今がある」といったように意味を一緒に見出し、ケアしてあげないことには、「共同」という側面からはそこから先に進めないような気もしている。

 

※1 「共通の時間感覚」(「みんな同じ時間を生きていると考えている」「人間平等意識」)「身分制」(年齢の上下)「贈与・互酬の関係」(もらったら、お返しをしなければならない)に代表されるルールのこと(参考:佐藤直樹著『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』)。

※2 その社会における先輩・後輩の関係よりも年齢差がコミュニケーションの形に優先的に影響している例を複数見かける。それまでのその社会における経験の差を無視して、「長幼の序」が持ち込まれていることがわかる。極端な例を挙げると、フィギュアスケート宇野昌磨選手を目の前にしたときに、彼よりも年長の者が(スケート社会の経験は圧倒的に宇野選手の方が豊富なのに、年齢を容易に「人生経験」に結びつけて)平気でタメ口を利ける精神があるとすれば、その精神は「長幼の序」と宇野選手の過ごしてきた22年と、自分の22歳までの生い立ちが同じようなものだろうという「共通の時間感覚」にしっかり根ざしていると言える。