世間に「傷ついた」人々のケアについて

承前

 

既に傷ついた人々

 自分のしたことについて、《上司》《家族》《客》に頭ごなしに否定・却下され、非常に嫌な思いをした。かつその際に対抗原理(「あくまでも自分の主張は正しい」「相手の方が間違っている」と言えるだけのロジック)を持っていなかったために、傷ついてしまった。

 

再び傷つかないための予防線

 先述の《上司》《家族》《客》などの(抽象的)総体を「世間」とする。「再び傷つきたくない」という思いを強く持っていて、そしてまだ対抗原理を見出せない状態にあるとき、再び傷つかないための予防線として、「世間」に文句を言われないための完璧主義的努力をするようになる。時には周囲の他者(大抵、自分より「弱い」者)をも巻き込む。その際に、「世間」に文句をつけられそうな「粗」を探すことに躍起になり、血眼になりその穴埋めを図る。「もう、傷つきたくない」。

 

それでは自分も周りもますます不幸になる

 そのような完璧主義的努力を続けることで、直接「世間」に傷つけられることはなくなるのかもしれない。ただ、それでは自分も周囲もますます不幸になりかねない。なぜなら、自分の《したい》《したくない》を置き去りにして、ひたすら「世間」というボンヤリかつ無限定なものの考えることを先回りして先回りして行い続けることはすなわち、「世間」という抽象的な他者のために、(ときに周りも巻き込んで)不本意な時間と労力を費やし人生を送ることだからだ

 予防線としての完璧主義的努力はまたいじめまたは排除の心性をも生み出す。それは自分と同じような完璧主義的努力を行わない者、「世間」の否定に対して自分と同じように傷つかない者に向けられる。そうした者はみじめだった「傷ついた」あの時の自己〜完璧主義的努力を続けて「耐えて」きた自己のありかたの妥当性を脅かす存在になるからだ。

 

呪いを解く

「もうそのような《粗探し〜穴埋め》はやめよう」と言うと、「いや、これは仕事だから」「社会とは(会社とは)“そういうもの”だから」「割り切ってやるしかない」などという詭弁が持ち出されるかもしれない。その時こそ、改めて問われるべきだ。「その“仕事”って何なのか?世の中にはあらゆる形の仕事が存在するが…」「“そういうもの”ってどんなものなのか?それはおそらく帰納的結論だと思うが、どの程度のサンプル数があったのか」「『割り切って』やることに対して異論がある。もっと考える余地はあるのではないだろうか?」。それらを改めて個別に検証していき、「仕事」「会社(社会)」「割り切れ(考えるな)」という呪いを解いていく必要がある。

 

傷を癒す・傷つきにくくする

 傷つきのもととなった経験は「頭ごなしの否定」だ。「頭ごなし」が「相手の言い分も聞かず、事情も知ろうとしない」態度であるならば、ケアの手段は大きく2つ存在する。一つ目は「予防線を張るに至った個別の経験にある思いについて、改めて相手の言い分を聞く・事情を聞く・知る・知ろうとする」ことだ。そして、確かに当時の《世間》が間違っていれば、「あなたは間違っていなかった」とか「《世間》の言うこともわかるが、確かにあなたの事情は考慮されるべきだった」というフォローを加える。もうひとつは対抗手段を持たせることだ。それは「〇〇はしない/できないことにしている」ルールとか「《世間》の主張を即座に否定できるロジックとしての「対抗原理」だったり「無条件の味方」であることを示すことだったり、様々存在する。いずれも今後《世間》の言葉のダメージを軽減できる手段となるものだ。そうやって、不必要or過剰な予防線を張らなくても大丈夫だということを、自分もまた《世間》の同居人として、少しずつ、繰り返し、様々な手段を用いて、伝えていった結果に、その先がある、かもしれない。少なくとも、伝えていくプロセスには、希望がある。

 

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