誰でも取り残されうる

    便利なオンラインサービスを使おう、と提案すると「じゃあ、それを使えない高齢者はどうなるんだ!(だから、それを使うのをやめろ)」となる。ただ、もしもそのオンラインサービスの普及率が8割9割くらいにまで達している場合、ましてそこに投入できるリソースに限りがある場合、旧来のシステムの維持コスト・利用コストが割に合わなくなってくる。しばしば「その分、(もっと労力を投入すべき)他のものにリソースを割けなくなる」という主張と「高齢者は〜」という主張とが対立し、堂々巡りになる。それに関連して、この記事を紹介したい。

 仮に「高齢者は〜」という主張が翻って、新しいオンラインサービスや、それにアクセスするためのスマートデバイスについて勉強しようと思い立ったとする…にも、ネットサービスには(上の記事内で述べられている)「ログイン」「タイムアウト」をはじめとする概念の集合があり、デバイスには「ここを押せばこの機能が出てくる」ピクトグラムやアイコンが散りばめられている。それらが一定の「共通理解」を形成している。それを内発的動機なしに一から「教える」「教わる」ことはそれぞれ非常に難しい。例えば「ファイル」タブから「名前をつけて保存」ができる、というのも「共通理解」の上に成り立っている立派な例だ。

 年を取るごとに自分の様々なリソースの有限性をより一層感じたり、自分の方向性が定まってきたりする(それを記事では「一種の成熟」と呼んでいる)。そうすると、社会が旧来のシステムの維持コストが割に合わないと思うのと同じように、個人が新しいシステムへ適応するコストもまた割に合わなくなってくる。これは構造的なものであり、好奇心とか頭の“良し悪し“とか、衰えとかに関わらず誰にでも起こりうることだ。新しいシステムに適応できない/しないが、あくまでも構造的なものと捉えることで、それぞれが自分ごととして考えられるようになるかもしれない。

 僕が3年半くらいの間に職場の近所の子どもたちと遊ぶなかで勧められ、「やったほうがいいんだろうな」と思いながらもその良さがまだいまひとつわからないでいるものには「マインクラフト」と「Tik Tok」がある。特に前者は(僕の認識ではたぶん)プログラミングにまつわる「共通理解」を形成する一要素であり、その「共通理解」のもとで動く世界がいつか現れるのかもしれないし、そうなれば今のままでは「取り残される」のかもしれないとも思う(ただやはり、内発的動機がない。彼らはそれを「学校内での流行り」という格好でスムーズに吸収しているように見える。今のところ一番僕に効く外からの動機は「ヨメのススメ」だ)。

 

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