今後、集まることの本質が問われるようになると起こること

 先日、上司に送ったメールの終わりに「今後は良きにつけ悪しきにつけ、集まることの本質(あるいは目的)が厳しく問われるようになる」ということを書いた。自分で書いた言葉なのに、帰り道にその言葉がじわじわと効いてくる感じがした。

 まず、「本当に集まる必要があるのか?」と厳しく問われるメリットを挙げるとすれば、それは間違いなく「ムダな会議(ここでいう「ムダ」とは「アジェンダが不明確で」「定例」として慣例的に開かれてきたもの)を無くしたり減らしたりする絶好のチャンスになること」だ。オンライン参加ができるようになれば、わざわざ会議のためだけに遠くへ出かける必要もなくなるかもしれない。

 その一方で、デメリットもある。それは「事前に集まる目的が明確でかつ他の手段に代替が不可能でかつ、やはりそれでも集まる必要があると認められるものだけ、その開催が許される」という状況に陥ることが想像に難くないことだ。これはそのままメリットの裏返しなのだが、どこが問題なのだろうか?問題は、先述の「集まる必要があると認められるもの」には明確な基準が存在しないことにある。そのため、集会を設けることの妥当性が「社会通念」や「世論」といった、あくまでも無限定なもの(ほぼ「空気」とイコール)に委ねられてしまう。「世間」や「社会通念」といった無限定な基準(と呼んでいいものかどうかすら怪しい)に全力で則ろうとすれば、いくらでもどこかの誰かへの配慮のしようがある。それはつまり、いくらでも別のどこかの誰かへの配慮不足が生じるということでもある。結果、膨大なリソースを割いて「配慮」することで疲弊したり、または「配慮不足が生じる可能性があるならば、集まるのはやめておこう」となってしまったりする。

 最近読んだ『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』という本で劇作家・平田オリザ氏が「命の次に大切なものは人それぞれ」と述べていた。同書の中で、映画監督の想田和弘氏は、久々にアメリカから帰ってきた自身が、感染リスク回避のために両親に会うのを躊躇っていたところ、親から「いま会わなくて、(自分たちが)死んじゃったらどうするの」という言葉をかけられた、というエピソードを紹介していた。感染=命の危機という認識もまだ拭えないいま、「命」という言葉を持ち出された日には、誰でもぐうの音も出まい。ただ、繰り返しになるが、自分の命が明日もおそらく続くだろうという前提に立ったとき(だから、我々は貯金をする!!)、命に次いで大事なものは本当に人それぞれだ。しかもそれが必ずしも感染拡大防止策に沿うものだとは限らない。「感染症拡大防止」がスローガンとして叫ばれるいま、僕はまさにそこにある種の危うさを感じているのだが、毎日感染予防策の「要請」がメディアを通じてなされるごとに、感染症拡大防止のポーズを取らない者への風当たりもまた、強いものになっているように思う。そんな時流にあって、「感染拡大防止」という“正義”を手にした人々が、自身でそれに則るのは良いとして、それこそ、「正義のマスク」を被って他人にも要求したり、不快な眼差しを向けたりしないだろうか。

 もうひとつ、デメリットがある。「集まりがどんどん合目的的になる」ということだ。集会を開催する目的が厳しくチェックされるなら、集会開催の結果もまた、厳しくチェックされるようになる。そこから生じる問題は、開催された集まりが、予め計画された結果(or成果)が出るようにコントロールされたものにどんどん成り下がることだ。(もしも集まり、話し合うことに新しい何かが生まれることが期待されるならば、極めて皮肉なことだが、)その結果、まだ知られぬ知が生まれる余地がなくなってしまう。また、周囲にその目的を明示して集まりを開いたからには、目的に沿った結果が出なくてよいわけがない、という無謬主義に陥ることも想像に難くない。

 希望はまったく失われてしまっただろうか?そんなことはないと思う。集まることに対して、具体的な罰則は存在しない。どうでも良いムダな会議を避けながら、他の誰かによるものでない、自らに由る決定を、孤独ながら下すことに対する心理コストを払いさえすれば、本当に自分の大事な人に、大事なときに、好きな場所で会うことは、感染回避のための行動の要請がなんとなく受け入れられるのと等しく、ただ、許されている。そこには少しの希望がある。