「つながりたい欲求」を直視してこなかった

 これまで、少なくとも7年間は不作為(「何かをすること」よりもむしろ「何かをしないこと」)の技術や思想を追求し、色々と文を書き連ねたり主張したりしてきたのだが、自分含め人々の「(作為:「なんかすること」 による)つながりたい欲求」を、たぶん直視してこなかった。それではどんなに不作為の技術や思想の正当化する言葉を並べても、理解されるはずがなかったのだ。

 コロナ禍で色々なつながりが切断された。それは表面上の快適さをもたらした。自分を含めみんなが手放したくて手放したくて仕方がなかった煩わしい人間関係から、一部解放されたような気分を味わえた。一方で、あらゆるつながりの切断がトンでもない孤独をももたらした。

 ここに来て、つながりへの再接続のときが来ているような気がする。ただそれは、「昔の〜」と呼ばれるものではない、別の形であるような気もしている。何が良くて、何がダメだったのか。つながりにおいて本当に大事な要素は何だったのか。生じてしまった時間でたくさん見つめ直したと思う。それを踏まえて来年は、改めて「つながりたい欲求」に向き合おうと思う。

自分にとってのジャムおじさんは誰か

 「人を助けるために頑張ること」が「自分の何かを差し出すこと」と近づいてしまっているとき、「アンパンマン」を思い出したい。

アンパンマンは弱っている人に自分の「顔」をちぎって差し出すことができる。しかし顔が欠けている状態では十分に力を発揮することができない。でも、ジャムおじさんが駆けつけて新しい顔を投げてくれることで「元気100倍!」になることができる。

 『居るのはつらいよ』という本の中で知ったのだが、ケアする人をケアするもののことを「ドゥーリア」というそうだ。アンパンマンのドゥーリアの一人は間違いなくジャムおじさんだ。アンパンマンにはジャムおじさんをはじめとする「ドゥーリア」があってこそ人々を助けることができるのだ。

 「人を助けるために頑張る」「自分の何かを差し出す」ということは、十分な「ドゥーリア」なくしては成立しない。ひいては、何かを差し出さなければならないケアに関わる人々こそ、「ドゥーリア」によってケアされることが必要だ。「自分にとってのジャムおじさんは誰(何)か?」という問いに答えられてはじめて、自己犠牲に頼らない良いケア活動ができるのではないだろうか。

とりあえず「なんかした」証明が欲しくて

 「タックルを一本決めただけで、あとは試合の結果がどうであろうと、どうでもよかった」という感じだったのかもしれない。

 僕は高校時代にラグビー部に所属していた。(正確には思い出せないが)オフェンス(攻め)に自信がなくて、いまひとつ攻撃面ではパッとしないプレーヤーだったと思う。そんな自分が唯一の持ち味にしていたのが、ディフェンスにおけるタックルだった(それもまた、のちの首の怪我で危うくなった)。

 そんな僕はどういうわけか、(副キャプテンをやっていたことや選手層が厚くなかったこともあり)一応レギュラーだった。それなのに、自分が試合に出ることについて確たる自信が持てていなかった。そんな僕が試合に出たときは、タックルを決めることで初めて自分がその試合に存在していい理由を手にしたような気になれた。チームが勝つか負けるかということまでは考えることができず、「タックルを決める」ということを考えるだけで精一杯だった。要は、自分がチームに「なんかした」という証明が欲しかったのだ。引退がかかった試合でさえ、だ。この態度は決して褒められたものではない。そして、我ながらなんだかかわいそうだ。

 そんなことをふと思い出すにつけて、チームに「なんかした」証明が欲しくて、周りが見えなくなり、「"とりあえず"がんばる」ということに想いを馳せる。本当に本人が欲しいのは、「なんかした」という空疎な証明なのだろうか?

「頑張る」は雨を降らすようなもの

 「頑張る(「無理をする」の手前みたいなもの)」というアプローチはたぶん、野菜作りにおける雨のようなものだ。雨が降らないと野菜は育たないが、雨はまた土壌を酸性に傾ける。土壌の酸性が強くなると野菜の生育に悪影響を及ぼす。

 より良い野菜を作ろうと思えば、石灰を入れて土壌を中和してやる必要がある。また当然のことながら日照時間が足りなくても野菜は育たない。そもそも、土づくりの段階で良い土壌を作っておくことで生育不良を防ぐことができる。そのためには元肥が必要だし、場合によっては追肥も施す。

 「頑張る」というは一つのアプローチに過ぎないのであって、そればかりで良いというものではない。むしろやりすぎは土壌を悪くする。良い作物を作ろうと思えば、よく日が当たるように工夫するとか、石灰を入れるとか、肥料を入れるとか、保水力を高める籾殻を入れるとか、さまざまなアプローチがあって然るべきだーーそんなふうに例えて、すっかり内面化されてしまって意識にも上らない「頑張る」を対象化できればと思うのである。

聞くということには能動的な側面もある

 「聞く」ということには能動的な側面もある。例えば、「好きなおにぎりの具は何か?」という質問をした後に、「僕が好きな具はなんとカラアゲで、妻がかつて僕が辛い時間を過ごしていた時にカラアゲ入りの(両手の拳をくっつけて)こんなにデカいおにぎりをよく夜食に作ってくれたから」と付け加えると、聞き手は「あぁ、そういうこと(エピソードと絡めた好きな具を聞きたいの)ね」と理解してもらえる。「え、なんでそんなこと聞くの?怖い怖い!」と訝しがられずに済む。他には、「好きなタレントは?」という漠然とした質問に対しても、「僕は最近『舞いあがれ!』という朝ドラを見ていて、主演の福原遥が良い演技をしていると思う」と加えて聞けば、「あぁ、この人は演技が上手だと思う俳優について聞きたいのか」と、頭の中にたくさん浮かぶ好みのタレントの中からより具体的に好みを聞き出すことができる。さらには、好きなドラマの話題にまで発展するかもしれない。

 他には、相手が大事にしていることを聞きたいと思えば、自分の大事にしている考えをそう思うにいたるエピソードと共に語ることから始めることができるし、苦しかったことを聞きたいと思えば、自分がどんなことを苦しいと感じ、どう悩み考え、これまでの時間を過ごしてきたのかを、自分の言葉で語ることで、相手が答えやすい糸口を差し出すことができる。

 こうした聞くことの能動性を、頭の中で野球におけるトスバッティングに例えることがある。どうやらトスバッティングとはピッチャー役が投げた緩いボールを正確にミート(捉え)して、ワンバウンドでピッチャーに打ち返す練習のことらしい。打ちやすいところにボールをポンとトスすればピッチャーに正確に返ってくる良いバッティングが期待できるように、聞き手がテーマとなる文を付け加えて質問することで自分の質問の意図に沿った返答が期待できる。

「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」のはなし

 職場なんていうものがあるうちは、僕たちにはとりあえず毎日行くところがあって、自分の座るイスがあって、とりあえずやることがある。だから「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」といったことを考えずにむ。そして、与えられた休日に何をするかを楽しみにとりあえずの業務をこなす。そして、毎日「なんかやった」気分になっている。

 ところが、引退して以降はエブリデイがホリデイだ。歓迎すべきことだろうか?「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」といったことを、嫌でも毎日考えなければならない。もしくはそんなことを毎日考えるのも大変すぎて「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」なんてことを考えなくなるかもしれない。よほど毎日の生活に対する感受性を高めて、日常の解像度を高めることができれば、変化の少ない日常の中にも充足感を求めることができようが、そうでなければ日々の生活に対する張り合いが失われてしまう。

 曲がりなりにも僕はいま、若者を対象とした「場所づくり」的なことをしている。ところが、実際には仕事を引退した人と会う機会の方が圧倒的に多い。僕たちの場所を訪ねてくれる、仕事を引退した人々でかつ元気な人は「何かやること」「誰か会う人・話す人」を求めている。おそらく毎日「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」という問いに(意識されないにせよ)迫られている。そして、「とりあえず行く場所」「とりあえず会う人」のルーティンに(たぶん)組み込んでくれている。

 話の内容の大部分は昔話や自慢話だ。それらは一般的には若者に嫌われるものとされているけれども、何せそれが自分のアイデンティティを作ってきたのだ。当然といえば当然だ。マウントを取らんとする話をされることも珍しくないが、そうやって「あなたにはできなくて、わたしにできること」を探し、そこから自分の経験や知識を活かせる穴を見つけようと思えば無理からぬことだし、自分が遠かれ近かれ、将来同じく「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」という問いに毎日迫られる立場になったら、同じことをしないと言い切れるだろうか?たぶん、言い切れない。そう思うと、無碍にすることはできない。