なかったことにしようとするほど、意識する

「自分の娘に昔の恋人の名前をつけるって、どうかしていると思いませんか?」


そう灯里が問うと、「私もそう思います」とその場にいた人が次々に手を挙げた。

僕が連休中に見たドラマ『最高の離婚』のスペシャル版におけるワンシーンだ。

諒「娘の名前は僕が決めたわけじゃ…」

灯里「私が『薫』にしようって言ったときどうして反対しなかったの?」

諒「反対したら逆に意識している気がして…」

灯里「それが意識してるの!おかしいでしょう⁈」

 綾野剛演じる登場人物の諒の妻で、真木よう子が演じる灯里が、娘が生まれたときに「薫」という名前をつけようとした。その名前は奇しくも諒の昔の恋人の名前だったのだが、諒はそれを止めなかった。後日、ひょんなことから昔の彼女・薫(演・臼田あさ美)と灯里が電車に乗り合わせてしまった灯里はその事実を知り、諒に「なぜ私が『薫』という名前をつけようとした時に、(そうと知りながら)止めなかったのか?」と問い詰めた。それに対して諒は「それだと、むしろ(昔の彼女を)意識しているようだから」と答えたが、それに対して灯里は「それが余計に意識しているっていうのよ!」と激昂し、火に油を注ぐ形になってしまった。

 一見、視聴者からすればトラブルの種に過ぎないこのやりとりだが、僕には「反対したら逆に意識しているような気がする」というのが十分理解できる。妻がつけようとしている「薫」と、かつての恋人「薫」は名前こそ同じであれ、全くの別人だ。あくまでも夫婦関係の中に過去の恋人の存在を持ち込まないことを貫くならば、反対することは過去の恋人の存在を持ち込むことになる。それがかえって昔の恋人の存在を意識することになってしまい、それさえ避けたいがために、妻の名前の提案を止めることができない、という理屈はあり得るものだと思う。

 もし、灯里が元カノの薫と出くわすことなく、娘の名前と元カノの名前が一致していることを周囲の人間にも知られることなく、この秘密を墓場まで持っていくことができたなら、諒の「逃げ切った」形になったかもしれない。ただ、諒にとってはかなりの時間、分が悪い自分との戦いを強いられることになっただろう。なぜなら、昔の恋人と過ごした時間や記憶があるという事実は、自分の中で決してなかったことにはできないからだ。

 なかったことにはできない以上、「薫」という名前に触れるたびに、かつての恋人を、(甘美な思い出まで含むかどうかは問わない。かつての恋人が「薫」という名前だった、という程度の事実であれ)思い出す可能性からは逃れられない。


なかったことには、できない

 上の話を、先入観の話にまで広げてみたい。例えば、「差別はよくない」という類のメッセージは様々なところで呼びかけられている。そしておそらく、多くの人が「差別はよくない」ということを「戦争はよくない」というのと同じレベルで、知っている。差別と同様、あらゆる先入観や属性を取り沙汰すことによって「人を傷つけてはいけない」ということも、わかっている。匿名のSNSをはじめとするさまざまな情報源から、人が傷つく可能性はあらゆるところに存在するということを、知っている。そして、実際に「傷ついた」声をたくさん目にして知る。我々は自分にも潜在する「加害可能性」を知る。

 もっとタイムリーな話にまで広げると、何かの拍子に目の前にいる人が新型コロナウイルスに感染して回復した人だと知る。または医療従事者だと知る。または県外から来た人だと知る。新型コロナウイルスを巡っては、なんらかのカテゴリにあるだけで、偏見や差別に遭うということが実際に報じられている。

例えば、この記事では新型コロナウイルス感染後、回復した看護師が復職しても差別に苦しんでいることが書かれている。

この記事では離職した看護師のうち2割に「差別や偏見があった」と報じている。

この記事では、仙台市が県外在住者に成人式への参加自粛要請を出したことで「それは差別ではないか」と問題を提起している。


 このような記事を頻繁にするたび、反差別を標榜したい我々はやはりまた、目の前の人々の「被害可能性」を慮り、その偏見による被害を生み出す「コロナ回復者」「医療従事者」「県外からの来訪者」といったカテゴリを無視することが決してできない。むしろ、それらに囚われさえする。カテゴリを知って、反差別としての労りの気持ちを示すものであれ、だ。そのような、カテゴリのラベルが頭をよぎって以降、自然な関わりがそこなわれてしまうことになる。さらに言えば、「被災者」もそうだ。

 

 自分の「加害可能性」と、他者の「被害可能性」がずいぶんと可視化された昨今にあって、おそらく少なくない人が、自らの加害可能性を、できるだけ消し去ってしまいたいと思うだろう。自分が買ったバッグよりもうっかり良いものが見つかることのないように祈りつつ、ついウインドウショッピングを続けてしまうかの如く、ポリティカル・コレクトネスを遵守するポーズを取る。他者の粗を探して、それを叩けば、自分はさもコレクトな側にいる気でいられる。ただ悲しいことに、ポーズをとれば取るほど、「労わらなければ」「予め理解しておかなければ」という思いのあまり、「理解」を装ってカテゴリに対する先入観をインストールしようとしてしまう。個が見えなくなる。

 

なかったことにはできないが

 事実は、決してなかったことにはできない。生まれてしまった意識をなかったことにしようとすればするほど、かえって強い意識が生まれるパラドックスが生じる。なくすことができないものを、なくそうとすれば、消耗するしかない。ただし、「薄める」ことはできる。労りとか庇護とかいうこと、もっと平たく言えば「かわいそうだ」という思いさえあえて向けることのない、普通の関わりを繰り返すうちに、「薄める」ことはできる。

今後、集まることの本質が問われるようになると起こること

 先日、上司に送ったメールの終わりに「今後は良きにつけ悪しきにつけ、集まることの本質(あるいは目的)が厳しく問われるようになる」ということを書いた。自分で書いた言葉なのに、帰り道にその言葉がじわじわと効いてくる感じがした。

 まず、「本当に集まる必要があるのか?」と厳しく問われるメリットを挙げるとすれば、それは間違いなく「ムダな会議(ここでいう「ムダ」とは「アジェンダが不明確で」「定例」として慣例的に開かれてきたもの)を無くしたり減らしたりする絶好のチャンスになること」だ。オンライン参加ができるようになれば、わざわざ会議のためだけに遠くへ出かける必要もなくなるかもしれない。

 その一方で、デメリットもある。それは「事前に集まる目的が明確でかつ他の手段に代替が不可能でかつ、やはりそれでも集まる必要があると認められるものだけ、その開催が許される」という状況に陥ることが想像に難くないことだ。これはそのままメリットの裏返しなのだが、どこが問題なのだろうか?問題は、先述の「集まる必要があると認められるもの」には明確な基準が存在しないことにある。そのため、集会を設けることの妥当性が「社会通念」や「世論」といった、あくまでも無限定なもの(ほぼ「空気」とイコール)に委ねられてしまう。「世間」や「社会通念」といった無限定な基準(と呼んでいいものかどうかすら怪しい)に全力で則ろうとすれば、いくらでもどこかの誰かへの配慮のしようがある。それはつまり、いくらでも別のどこかの誰かへの配慮不足が生じるということでもある。結果、膨大なリソースを割いて「配慮」することで疲弊したり、または「配慮不足が生じる可能性があるならば、集まるのはやめておこう」となってしまったりする。

 最近読んだ『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』という本で劇作家・平田オリザ氏が「命の次に大切なものは人それぞれ」と述べていた。同書の中で、映画監督の想田和弘氏は、久々にアメリカから帰ってきた自身が、感染リスク回避のために両親に会うのを躊躇っていたところ、親から「いま会わなくて、(自分たちが)死んじゃったらどうするの」という言葉をかけられた、というエピソードを紹介していた。感染=命の危機という認識もまだ拭えないいま、「命」という言葉を持ち出された日には、誰でもぐうの音も出まい。ただ、繰り返しになるが、自分の命が明日もおそらく続くだろうという前提に立ったとき(だから、我々は貯金をする!!)、命に次いで大事なものは本当に人それぞれだ。しかもそれが必ずしも感染拡大防止策に沿うものだとは限らない。「感染症拡大防止」がスローガンとして叫ばれるいま、僕はまさにそこにある種の危うさを感じているのだが、毎日感染予防策の「要請」がメディアを通じてなされるごとに、感染症拡大防止のポーズを取らない者への風当たりもまた、強いものになっているように思う。そんな時流にあって、「感染拡大防止」という“正義”を手にした人々が、自身でそれに則るのは良いとして、それこそ、「正義のマスク」を被って他人にも要求したり、不快な眼差しを向けたりしないだろうか。

 もうひとつ、デメリットがある。「集まりがどんどん合目的的になる」ということだ。集会を開催する目的が厳しくチェックされるなら、集会開催の結果もまた、厳しくチェックされるようになる。そこから生じる問題は、開催された集まりが、予め計画された結果(or成果)が出るようにコントロールされたものにどんどん成り下がることだ。(もしも集まり、話し合うことに新しい何かが生まれることが期待されるならば、極めて皮肉なことだが、)その結果、まだ知られぬ知が生まれる余地がなくなってしまう。また、周囲にその目的を明示して集まりを開いたからには、目的に沿った結果が出なくてよいわけがない、という無謬主義に陥ることも想像に難くない。

 希望はまったく失われてしまっただろうか?そんなことはないと思う。集まることに対して、具体的な罰則は存在しない。どうでも良いムダな会議を避けながら、他の誰かによるものでない、自らに由る決定を、孤独ながら下すことに対する心理コストを払いさえすれば、本当に自分の大事な人に、大事なときに、好きな場所で会うことは、感染回避のための行動の要請がなんとなく受け入れられるのと等しく、ただ、許されている。そこには少しの希望がある。

誰でも取り残されうる

    便利なオンラインサービスを使おう、と提案すると「じゃあ、それを使えない高齢者はどうなるんだ!(だから、それを使うのをやめろ)」となる。ただ、もしもそのオンラインサービスの普及率が8割9割くらいにまで達している場合、ましてそこに投入できるリソースに限りがある場合、旧来のシステムの維持コスト・利用コストが割に合わなくなってくる。しばしば「その分、(もっと労力を投入すべき)他のものにリソースを割けなくなる」という主張と「高齢者は〜」という主張とが対立し、堂々巡りになる。それに関連して、この記事を紹介したい。

 仮に「高齢者は〜」という主張が翻って、新しいオンラインサービスや、それにアクセスするためのスマートデバイスについて勉強しようと思い立ったとする…にも、ネットサービスには(上の記事内で述べられている)「ログイン」「タイムアウト」をはじめとする概念の集合があり、デバイスには「ここを押せばこの機能が出てくる」ピクトグラムやアイコンが散りばめられている。それらが一定の「共通理解」を形成している。それを内発的動機なしに一から「教える」「教わる」ことはそれぞれ非常に難しい。例えば「ファイル」タブから「名前をつけて保存」ができる、というのも「共通理解」の上に成り立っている立派な例だ。

 年を取るごとに自分の様々なリソースの有限性をより一層感じたり、自分の方向性が定まってきたりする(それを記事では「一種の成熟」と呼んでいる)。そうすると、社会が旧来のシステムの維持コストが割に合わないと思うのと同じように、個人が新しいシステムへ適応するコストもまた割に合わなくなってくる。これは構造的なものであり、好奇心とか頭の“良し悪し“とか、衰えとかに関わらず誰にでも起こりうることだ。新しいシステムに適応できない/しないが、あくまでも構造的なものと捉えることで、それぞれが自分ごととして考えられるようになるかもしれない。

 僕が3年半くらいの間に職場の近所の子どもたちと遊ぶなかで勧められ、「やったほうがいいんだろうな」と思いながらもその良さがまだいまひとつわからないでいるものには「マインクラフト」と「Tik Tok」がある。特に前者は(僕の認識ではたぶん)プログラミングにまつわる「共通理解」を形成する一要素であり、その「共通理解」のもとで動く世界がいつか現れるのかもしれないし、そうなれば今のままでは「取り残される」のかもしれないとも思う(ただやはり、内発的動機がない。彼らはそれを「学校内での流行り」という格好でスムーズに吸収しているように見える。今のところ一番僕に効く外からの動機は「ヨメのススメ」だ)。

 

【関連記事】

世間に「傷ついた」人々のケアについて

承前

 

既に傷ついた人々

 自分のしたことについて、《上司》《家族》《客》に頭ごなしに否定・却下され、非常に嫌な思いをした。かつその際に対抗原理(「あくまでも自分の主張は正しい」「相手の方が間違っている」と言えるだけのロジック)を持っていなかったために、傷ついてしまった。

 

再び傷つかないための予防線

 先述の《上司》《家族》《客》などの(抽象的)総体を「世間」とする。「再び傷つきたくない」という思いを強く持っていて、そしてまだ対抗原理を見出せない状態にあるとき、再び傷つかないための予防線として、「世間」に文句を言われないための完璧主義的努力をするようになる。時には周囲の他者(大抵、自分より「弱い」者)をも巻き込む。その際に、「世間」に文句をつけられそうな「粗」を探すことに躍起になり、血眼になりその穴埋めを図る。「もう、傷つきたくない」。

 

それでは自分も周りもますます不幸になる

 そのような完璧主義的努力を続けることで、直接「世間」に傷つけられることはなくなるのかもしれない。ただ、それでは自分も周囲もますます不幸になりかねない。なぜなら、自分の《したい》《したくない》を置き去りにして、ひたすら「世間」というボンヤリかつ無限定なものの考えることを先回りして先回りして行い続けることはすなわち、「世間」という抽象的な他者のために、(ときに周りも巻き込んで)不本意な時間と労力を費やし人生を送ることだからだ

 予防線としての完璧主義的努力はまたいじめまたは排除の心性をも生み出す。それは自分と同じような完璧主義的努力を行わない者、「世間」の否定に対して自分と同じように傷つかない者に向けられる。そうした者はみじめだった「傷ついた」あの時の自己〜完璧主義的努力を続けて「耐えて」きた自己のありかたの妥当性を脅かす存在になるからだ。

 

呪いを解く

「もうそのような《粗探し〜穴埋め》はやめよう」と言うと、「いや、これは仕事だから」「社会とは(会社とは)“そういうもの”だから」「割り切ってやるしかない」などという詭弁が持ち出されるかもしれない。その時こそ、改めて問われるべきだ。「その“仕事”って何なのか?世の中にはあらゆる形の仕事が存在するが…」「“そういうもの”ってどんなものなのか?それはおそらく帰納的結論だと思うが、どの程度のサンプル数があったのか」「『割り切って』やることに対して異論がある。もっと考える余地はあるのではないだろうか?」。それらを改めて個別に検証していき、「仕事」「会社(社会)」「割り切れ(考えるな)」という呪いを解いていく必要がある。

 

傷を癒す・傷つきにくくする

 傷つきのもととなった経験は「頭ごなしの否定」だ。「頭ごなし」が「相手の言い分も聞かず、事情も知ろうとしない」態度であるならば、ケアの手段は大きく2つ存在する。一つ目は「予防線を張るに至った個別の経験にある思いについて、改めて相手の言い分を聞く・事情を聞く・知る・知ろうとする」ことだ。そして、確かに当時の《世間》が間違っていれば、「あなたは間違っていなかった」とか「《世間》の言うこともわかるが、確かにあなたの事情は考慮されるべきだった」というフォローを加える。もうひとつは対抗手段を持たせることだ。それは「〇〇はしない/できないことにしている」ルールとか「《世間》の主張を即座に否定できるロジックとしての「対抗原理」だったり「無条件の味方」であることを示すことだったり、様々存在する。いずれも今後《世間》の言葉のダメージを軽減できる手段となるものだ。そうやって、不必要or過剰な予防線を張らなくても大丈夫だということを、自分もまた《世間》の同居人として、少しずつ、繰り返し、様々な手段を用いて、伝えていった結果に、その先がある、かもしれない。少なくとも、伝えていくプロセスには、希望がある。

 

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「世間」出身者もケアされないと先に進めない

 「世間」はある種の宗教のようなものであり、生きていくための振る舞い方(のうちの一つ)を示してくれるものだと僕は思っている。ある特定の社会を超越するものとしての「世間」のルール(※1)にハマっている限り、突然知らない人の社会に放り込まれても、とりあえずの身の置き所を示してくれるからだ(※2)。程度の差こそあれ(日本の?)社会全体に、明文化されることなく浸透したそのような「世間」での各人のあり方が教育を通じて後世に連綿と続いていくことで、社会にある一定の秩序をもたらし、存在論的不安から人を救ってくれるーーそんなシステムとして、「世間」は機能してきた(している)側面があるのだと解釈している。世間に従っておけば、とりあえず、コトを運ぶことができる。たとえ不本意であれ。

 「世間」には上記のようなメリットがある一方でデメリットもある。『世間学への招待』という本の背表紙にはこんなことが書かれている。

「世間の目」「世間体」という言葉に端的なように、われわれの生活・思想を統制するシステムとして、ときには差別的・暴力的に機能し、多くの弊害や軋轢を生み出している。

この記述は「世間」には差別と暴力が横行しているということを暗示している。そしてその「世間」の色の強い、差別と暴力のまかり通る社会をなんとか我慢して過ごしてきた人々にとって、「耐えぬいて今までやってきたこと」は、たとえその中でいくら惨めな思いをしてきたとしても、「耐え抜いたこと」それ自体が自負となっている。その自負を裏付けるのが「ひたすら、耐えること」であり、「こんなに辛いことを耐えられる自分は大丈夫」という(歪んだ)万能感を生む。個人でそう思ってくれる分には問題ない。問題は、世間のあり方が職場やその他共同作業の場にまで持ち込まれることだ。どこのだれとも示すことのできない、極めて抽象的な「世間」対策のために、「〇〇という人もいるかもしれないから」「世間が許さないから」と、「世間」の人々全てを納得させるという不可能なことを実現するために、本来ならばやらなくてもいいようなことにエネルギーを割き、その結果、余裕をなくすことだ。さらに厄介なのは、「(苦痛に)耐えること」がますます彼らの万能感を強化しうることだ。「世間」は「頑張っている人」「苦痛に耐えている人」をいじめはしない。その場合、頑張り・忍耐の成果は全く問われない。それどころか「頑張った(耐えた)のに、ダメだった」となってはじめて、「仕方がない」となる。

 「耐えるのをやめて、もっと楽にやろう」「もっと自分たちのやりやすい方法を提案していこう」という言葉は、ばちばちの「世間」出身者には、そのままでは多分響かない。自らの万能感の源:「(苦痛に)耐えること」をそう簡単に手放すことはできない。それどころか、「世間」出身者をも楽にするはずの論理であれ、「耐えぬいた」過去を否定されたと受け取られれば、そのような主張をすること自体が、迫害の対象となる可能性を生んでしまいかねない。

 (差別と暴力という装置のおかげである一定の秩序が保たれている)世間を我慢して渡ってきた人に対して、具体的に「なぜ、それをしなければならないのか」と言って、その必要性を否定することで「やらなくてもよい」「もっと楽にやれる方法がある」と言うことはできる。理屈では「勝て」てしまうかもしれない。ただ、昔、彼/彼女のいた社会において「耐えて、耐えて、耐え抜いた」過去の経験に対して「それが、無駄じゃなかった」「当時は、明確な意味があった」「そのおかげで、今がある」といったように意味を一緒に見出し、ケアしてあげないことには、「共同」という側面からはそこから先に進めないような気もしている。

 

※1 「共通の時間感覚」(「みんな同じ時間を生きていると考えている」「人間平等意識」)「身分制」(年齢の上下)「贈与・互酬の関係」(もらったら、お返しをしなければならない)に代表されるルールのこと(参考:佐藤直樹著『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』)。

※2 その社会における先輩・後輩の関係よりも年齢差がコミュニケーションの形に優先的に影響している例を複数見かける。それまでのその社会における経験の差を無視して、「長幼の序」が持ち込まれていることがわかる。極端な例を挙げると、フィギュアスケート宇野昌磨選手を目の前にしたときに、彼よりも年長の者が(スケート社会の経験は圧倒的に宇野選手の方が豊富なのに、年齢を容易に「人生経験」に結びつけて)平気でタメ口を利ける精神があるとすれば、その精神は「長幼の序」と宇野選手の過ごしてきた22年と、自分の22歳までの生い立ちが同じようなものだろうという「共通の時間感覚」にしっかり根ざしていると言える。

問題の当事者は誰だろうか

 自分は問題だと思っていないことを指摘され、問題の当事者に「される」とき、そこには当事者性がなくなり、結局、自分の感覚を頼りにしなくなるということを指摘したい。

 

 先日近くの湖でボート(競技用)を漕いだ。僕には大学で4年間やってきたにも関わらず、最後まで直すことができなかった癖があった。それを久しぶりに乗って思い出した。引退から7年経ってもそのままで、それが実際に漕ぎにくさにつながっていたからだ。数日してもう一度漕ぎに行った。少しの時間だったが、選手だった当時は気づくことができなかった改善のヒントが得られた気がしたのだ。それからというものの、ボートを漕ぎたくて仕方がない気持ちでいる(しかし残念ながらボート場は程なくして秋冬季閉鎖に入ってしまった)。

 

 僕には選手時代にちょっとした後悔がある。ボートは感覚のスポーツなのに、自分の感覚をもうひとつ頼りにできなかったことだ。自分はそれほど問題に思っていなかったことについて、陸上から漕ぎを見ているコーチに「お前はこの部分が下手だから、そこを集中的に練習して直すぞ」と言われることを繰り返すうちに、コーチの目に悪く映らないような漕ぎ方のフォームを追求したことがあったことを覚えている。当然、全くの素人に基本型を教えるのは難しいし、それをしてくれたのは紛れもなく諸先輩でありコーチ達だ。その人々を責めるつもりは毛頭ない。しかし、自分の問題意識を超えた問題を指摘され続けるうちに、自分の感覚を捨ててしまっていたこと、他の誰かが当人の問題意識を越えて熱心な善意で「正しいことを教える」ことそのものは感覚のスポーツをする上でマイナスだったと思う。良し悪しの判断を「コーチの目」に委ねてしまった時のヴィジョンは今でも覚えている。

 もちろん、競技時代と趣味でやる時とではボートへのコミットメントが全く異なる。ボート漬けの日々が、そうだな、2年目にも入ってしまえば、あとは自分で気が付かない漕ぎ方の癖を、誰かの目を頼りに直して「もらう」より他ない状況にあったかもしれないと振り返ることはできる。それに、最後に「より良い」感覚を掴んだ時の乗艇時間はせいぜい30分だ。冒頭で述べたように、7年も競技から離れていた人間がポッと思い付いた/気がついたことが、ドラスティックな変化をもたらすアイディアであるはずがない、と言われればそれまでだ。

 ただ、それにしても選手当時は過密なスケジュールの中で自分で考える余裕がなかった。そこに自分より「見る目のある」人の指摘が入れば、問題への当事者性はあっという間にかっさらわれてしまう。そうすると、どんどん自分の考えとか感覚を捨て、「コーチに従っていれば良い」という選手が生まれてしまう。

 本来、コーチからは「おれは、おまえのこの部分がやりにくそうに見えるんだけど、どう思っている?」という問いかけが(たとえ、その指摘が99%正しいと思う気持ちがあってもだ)あるべきだと今では考える。それに対して、「いいえ、特にそういう風には思っていません」と答えがあれば、一旦その問題はスルー、当人が問題を感じている部分に取り組むし、「確かに、そこ、やりにくいと思っていました」と答えがあれば、そこで初めて、一緒になって問題改善に取り組む。そういった、問いかけと反応が間に挟まってこそ、当事者性を保ちながら、問題解決に向かっていけると思う。何より、競技が楽しくなる。そのコミュニケーションの下地(心理的安全性・言語化能力・信頼関係など)もまた、整えられなければならない。

 

 これは競技に限った話ではない。いま僕は曲がりなりにも「支援者」の立場にいる。たとえ自分の知識から「絶対に使ったほうがいい」と思うような制度やサービス、その他自分が学び・知り得た方法があったとしても、本人の問題意識を置き去りにして問題を「解決」してやろうというあり方からは、当人が今後自分で考えて納得いくようなライフタイムを送っていくためのサポートは生まれないと考えている。それどころか、早々に自分の考えや感じていることを捨てさせることにつながるとさえ思う。「競技は遊びじゃない」「支援は『仕事』」などという御託に屈服しないための対抗原理と、なんのための「支援」なのかのヒントを、僕は上記の経験から得た気がしている。

「順番にどうぞ」問題

 突然だが僕は会議などで「順番にどうぞ」というスタイルで順繰りに喋っていくというやり方がくそ程に苦手であり、嫌いだ。僕はそのような会議のあり方がむしろ人々をコミュニケーションから遠ざける要因にもなってしまうことを指摘したい。

 普段のコミュニケーションは「●●を伝えたい」という意志(僕はこれを「コミュニケーション意志」と呼んでいる)をスタートに始まる。そのタイミングは基本的に、伝えたい内容が心に生じた時だ。それに対して、「順番にどうぞ」下ではそれは基本的に無視されている。喋りたいタイミングは奪われ、発話にイニシアチブがない。発話の形をとっていながら、そこには発話の主体が不在だ。何かのきっかけでAが発した言葉にきっかけを得たD(「B」でないのは順番を意識しないため)がそれに関連して伝えたいことをつなげていくのがコミュニケーションならば、「順番にどうぞ」はその対極と言っていい。「順番にどうぞ」状況下で、おそらく少なくない人が、仕方がないから、大しておもしろくもない「それらしい」ことを喋っていく。そうして会議は進んでいく。かくして、会議はくそになる。

 順番に自己紹介をする、という場面を思い出してみてもらいたい。「〇〇です。よろしくお願いします。」という流れの中で、一体何人の名前を覚えることができただろうか?頑張ってメモでも取って覚えたフリでもしてみようと思っているうちに、メモが追いつかなくなるかもしくは気持ちが追いつかなくなるのは想像に難くない。そして人数が増えるほど、名前を覚えるのが難しくなるのは必至である。自己紹介はそれぞれのことを知るのが目的なのに、「あの人は〇〇さんで、あの人は■■さんで…」とか、「自分のターンに何を喋ろう」とかいって注意が拡散した結果「結局誰の名前も覚えられなかった」ということも珍しくないはずだ。

 順番に参加者それぞれのトピックを喋る場合のことも考えてみたい。先に述べたように、自分のターンのことを気にするのはもちろんのこと、「順番にどうぞ」状況下ではそれぞれのトピックが終われば話はハイ終わり、次のトピックとのつながりがない。関連がないから、なんとなくメモを取って参加したふりをしてみても、大して内容が頭に入らないか、入ったとしても断片的な情報か、もしくは後につながらないかだと僕は考えている。

 それでも、「(会議を開いて)顔を合わせることが大事であり、会話の内容はどうでもいい」とか「会議が手段でなく目的になってもいい」と思う主催者はいると思う。そこに大きな問題がある。「順番にどうぞ」式の面白くない、身にならない、時間の浪費とも思われる会議を開き、参加者がただ不快な思いをして帰ることになるという印象が植え付けられてしまった結果、ますますコミュニケーションから遠ざかってしまうのだ。「顔を合わせることがコミュニケーションのために大事」と、本来はコミュニケーションの一手段としての対面を目的にしてしまったために、「この方法でなら、自分の意思を表明しないでおこう」と思うなら、意思疎通はますます実現しないだろう。

 それにも関わらず、考えなしにこのような「順番にどうぞ」スタイルが踏襲されているのは、それが一応、(大したアジェンダがなくとも)会議のテイを成すことになんとなく一役買ってしまっているからだろうし、仮に大した成果に結びつかなくとも「誰も何も言わない」という最悪の事態だけは免れるからだろう。「順番にどうぞ」は主催者目線の方法でしかないのだ。

 たとえコロナ禍において会議のオンライン化が進められようとも、「順番にどうぞ」といって参加者全員に喋らせるのが目的のような会議ならば、それは情報共有という観点からはあまりにも非効率すぎる(結局、テキストの方が十分に時間をかけてまとめたり、のちに保存できるから)。コミュニケーションとしても結局「コミュニケーション意志のない、当事者(せいぜい、主催者だけが当事者の)不在の」質の低いやりとりに終始し、結局(同期型コミュニケーションという性質上)参加者の時間を浪費するものに成り下がる。本当に「意思疎通」を図りたいと思うならば、なんとなく当然視してきた「順番にどうぞ」式を見直さなければならない。「コミュ力」などと言って対面コミュニケーション力だけがもてはやされるが、コミュニケーションの手段は(ICTの発達した現代社会においてはなおさら)実は山ほどある。