老いてなお

  「老いることができない」とか「『若者』から降りることができない」というフレーズを目にして以降、人付き合いのなかでそのようなことが頭を過ぎることが度々ある。

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「若者でいなければならない」。それはあえてネガティブに言うならば「常に自分より若い人と競争しなければならず、しかも、そこから降りられない」「そのために、いつまでも『若者』としていつまでも『可能性の中を生き』なければならない」という強迫観念に近いものだ。決して他人事ではない。

 

   老いてなお尊敬されている、もしくは「役立たず」だと後ろ指を差されない安心があってはじめて、適切に老いることができるのでは、というようなことを考える。そう考えると、年功序列的な考え方はぐるっと回って人に老いることを「良い意味で」促進する役割を担っていたのかもしれない。

   (ちょっと皮肉を込めて)誰かに安心して老いて欲しい(≒上記ツイートに則り「知識・才能・未来を持つのを許して」欲しい)と思うならば、形はどうあれ尊敬を与えなければならない。年功序列的考え方は、それを見事に形式化(必ずしも真の敬意が伴わなくとも良い)していたのだと気付いた。

    ただ、いざ自分が「老いる」番になったとき、時代の変化に伴い新しいものが次々と台頭してくるなかで、年功序列だけで尊敬されるとは考えがたい。老いてなお、尊敬が与えられるとすれば、それはきっと「若者」に確かな尊敬を送ることができるようになった時なんじゃないか。尊敬を送る、その経験値だけは、今から貯めることができるんじゃないだろうか。そしてそのいつか訪れる「老い」の中にこそ、かつて自己が拡散していたのとは異なり、自分が追求すべき大事なものが残るんじゃないだろうか。

とりあえず、無駄でもよくね

    今となっては「あれは無駄だった」と思うことは、僕にとっては「(パッケージとしての)就活」だろうか。今後も「やっとけばいつか役に立つから」という内外からやってくる詭弁によって、ひたすら「やる」こと(「いる」ことではなく)で埋め尽くされることを危惧している。特に、それが善意に満ちているほど。

  「やって無駄なことなんて何ひとつない」とはよく聞く。ただあくまでも「無駄じゃなか」ったと分かるのは、その経験が事後的に役に立ってはじめてのことだ。それを、まるで経験から「元を取る」かのように「あの経験は確かに役に立っている」と言い切ることに固執してしまっては、かつて「無駄だ」と思わしめた自分の中に存在した不本意性から目を背けることになる。そうすると、不本意なことでも「やる」のが美徳ということになってしまう。そうではなくて「かつてあれをやったが、あれは無駄だった」と言い切ってしまうことができれば、楽になれると思う。意味付けは何度でもし直すことができるから、後で役立った時が来てはじめて「無駄じゃなかった」と言えればいい。

カンユウ文句

   相手のリテラシーを超えて、自分のお勧めしたいものを強く提案する、という点で僕にとっての「格安SIM」と、彼女にとってのその宗教は大した違いがないのかもしれない。

   僕が他人に強烈にお勧めしたいものがあるとすれば、それは格安SIMだ。「それは詳しい人じゃないとわからないんでしょ」と渋る(しかも動画を見まくることのない)中高年にこそ「あの、〇〇モバイルってところに行ってみて。今使っている(D・A・S)社から乗り換えたいと伝えればいいプランを紹介してもらえて、まずゼッタイに安くなるから!」と言って勧誘したくなるかもしれない。その場合、おそらく自分の気持ちは相手の経済的助けになる提案がしたいと思う善意でいっぱいだ。もし仮に自分が「〇〇モバイル」の社員で契約ノルマを背負っている立場なら、その勧誘は一層鬼気迫るものになることは想像に難くない。それを聞く人は、眉に唾をつけながら聞くのだろう。

   昨日知り合いから新興宗教の勧誘を受けた。主な勧誘文句は「これまで名医でも治すことのできなかった難病が治った例がある」「自分自身の長年に渡る原因不明の体調不良が改善された」「正しい教えに則ってきちんと勤行をすれば、必ず成仏できる」「知らないと損」「成仏できないことが、どんなに苦しいことか」「まず、あそこにある〇〇という場所に行って、正しい教えに触れて欲しい」というようなものだった。僕は終始眉に唾を付けては重ね、を繰り返しながら、恐ろしいほど純然たる善意に満ちた眼差しの彼女から “有難い” 話を聞かせてもらった。「なるほど、それが貴女のパワーの源だったのですね」と納得し、最終的には「しかし僕は『やらない理由がない』からやるのではなく、自分の中に確たる『やる理由』が欲しいから」ということで、その話の流れで施設に行く提案は断った。「もしも『やる理由』ができたその時が来たら、ぜひ相談させて欲しい」と、一応、加えた。

「陰謀論おじさん」が「エラく」ない

  先日ある人から「新型コロナウイルスは陰謀だ」という感じの話を聞いた。「《みんな》は本当のことから目を逸らされて騙されている。けれどもおれは本当のことを知っている」みたいな話だったので眉に唾を付けながら聞いていた(もちろん、その話の中にも発見はあった)。話を聞くにその人はおそらく徹底した反権力論者だ。他にも多分そうした(しかし、間違いとは言い切れない)言説を信じている人は少なからずいるんだろうな、と思った。

   そんな感じの「陰謀論おじさん」はこれまでに何度か出会ったことがある。「陰謀論おじさん」は研究熱心で、よく勉強し、よく調べている。ただ、「エラく」ない。よく勉強し、調べ、コレクトネスを追求する姿勢と「エラく」なれないこととに関係があると踏んでいる。

   「マジョリティを『気づかずにいられる人』と訳す提案」ツイートが物議を醸している。それに則り、マジョリティを(平たく言うと)「良くも悪くも、(自分が困っていないから)頓着のない、ごく普通の善良な市民」だとすれば、「エラい」人の役割は、98%のマジョリティを動かすこと。人が皆同じでない以上、マジョリティを動かす(完全たり得ない)セオリーはまず「2%のマイノリティに対する配慮を欠くもの」になる(逆に、配慮がなされていないという自覚があるからこそ、マイノリティとなる)。

    また、システムが大きくなり効率化・画一化され、社会に大きな成果を生み出すほど、その裏には苦しんだり、搾取されたりする人が出てくる。安価で良質な商品・サービス提供の裏側に搾取されている人がいるという例は枚挙にいとまがない。苦しみ・搾取される一部の人や、「配慮されない」マイノリティの存在がありながら、マジョリティを動かすセオリーを時に断行せざるを得ない。「エラい」立場になるに伴う、そのような自らの加害者性に直面したとき、自らがコレクトネスに対してコンシャスであればあるほど、苦しみが増す。責められる余地を自らの加害者性の中に認めながら、それでもなお、悩み抜きなんとか共存する体力があるか、もしくは「被害者」の存在について【完全な無知】か、さらには【完全な共感の欠如】でいられる人物だけが、「エラく」なり、「エラく」いることができることになる。

善意と反緊縮

緊縮財政に対抗するのは、現場の「善意」なのだろうか?という疑問から始めたい。

 

   僕はいわゆる「ゆとり世代」かつ「デジタルネイティブ世代」だということもあり、どちらかというと「働き方改革」側に立っている。デジタルツールを使うことによって省ける手間は極力省く。「それによって生まれた余裕に新しい作業を詰め込んではいけない。余裕はあくまでも『余裕』として過ごすことで、それが本当の『余裕』になる」という持論もまた「改革」を後押ししてきた。しかも今の環境では残業代が出ないことや、ワークライフバランスを重視する観点からも、定時になったらとっとと帰る。とっとと帰って家族との時間を楽しみ、よく休み、また明日元気に出勤する。残業は家に居場所のない人がするものだ、とさえ思い込んでいた。

   今の職場では予算(from公金)の縮減により、毎年(少なくとも)一人ずつ職員が削減されることになっているし、これまでも削減されてきた。この、財政政策による人員の削減を受けて「人が少ない」効果がじわじわと効いてきている。自分がいつ辞めさせられるかわからない状態で、健全な人間関係とモチベーションを維持するのはなかなか難しいだろうな、と思う。

   僕が支持してきた「働き方改革」は「人が少ない」という現状にマッチする。「人が少ないのだから」を錦の御旗に掲げ、ムダと思われるものをどんどん削減していく。それがデジタルツール及びデジタルにまつわる自分の知識が生かされるほど、ある種の快感も伴う。そうしていくと、「人が少ない」現状に合わせていくように、作業量が減る。作業量が減ると、「やっぱり、人必要ないよね」という主張を認める材料になりうる(ほんとうは、「余裕」を作るためには余剰な人員が必要なわけだが…)。

   そうやってどんどん「無駄を削減する」ということが、結局は人件費抑制を追認することになりはしないだろうか、という疑問が浮かぶ。あえて、削減の余地があっても、(いわゆる)「無駄」を削減することなく、「そこにはやはり人が必要だ」「もっと予算を増やして欲しい」と主張する方が、反緊縮的ではないだろうか。従来の「非効率的な」方法に固執すること自体は問題だと思いながら、その方が、全体としては豊かになれるのかもしれない。

   ただ、人を雇う予算はすぐに付くわけではない。もしも、目先の、短期的な目線で人件費抑制に抵抗し、「人々により良いサービスを」と思えば、限られた人的・時間的・金銭的(予算)リソース(+余裕)を超えた部分について、現場の人間が「善意の」持ち出しでカバーせざるを得ない。しかも、人のウェルフェアには限りがない。持ち出さない理由は、基本的に、ない。対人サービスにexposedな(さらされた)現場職員が善意でカバーすればするほど、その善意が含み資産とみなされるようになり、結局予算を付けない理由になる。それが、「絆」や「つながり」といった、人間としての連帯に訴えるようなわかりやすいワードに収斂されていくのを横目に、モヤモヤした気持ちでいる。

そんなことなら、神頼み

   7月4日現在、僕の住んでいる岩手県では新型コロナウイルスの感染者が確認されていない。なんと、それにも関わらず接触感染アプリ「COCOA」のインストール率は全国トップなんだそうだ。

感染者がいないのが本当なら、それ自体は良いことだ。しかし僕は「感染者(確認)ゼロの理由」が「真面目な県民性」に帰着することを危惧している。「真面目な県民性」説が、一層の個々人の意識高揚につながると同時に、(たとえ個人の努力ではどうしようもない要素も多く含まれた結果であっても)「そうでなくちゃいけない」という同調圧力を強めることにつながりかねないからだ。

   先日参加したミーティングにて岩手県(の一部地域)では「店を続けていくだけの自信があっても、そこで新型コロナウイルス感染者を出したら、(たとえ法的責任を問われなくとも)その地域では一生店を続けていけなくなる(だけのレッテルを貼られかねない)」という理由で休業する人がいる、という話を聞いた。それこそ(本当にそうなるかどうかは別として)「村八分」という言葉も出た。ウイルスよりも、人が怖い。

   どこか都合が良い、とか馬鹿馬鹿しいとか思っていたが、そんなことなら「アマビエ」とか「神が鬼に悪さをさせないように『岩』に『手』形を押させた」という県名の由来とかを持ち出された方が、よっぽどマシなような気がする。というか、神様ってそのために作られたんだろう。人に他人を責めさせないように。

いい人の価値が下がる

   「いい人をやめれば」的な本を見るたびに、「またまた…」と思っていたのが、「いい人(≒他人にとって都合のいい人)」でいることは確かに自分の価値を下げることにつながると考え始めた。自分の譲れない条件を死守することが、かえって自分の価値を上げるかもしれない。

   とある心療内科には木曜日にしか来ない医師がいる。その医師に診てもらいたい患者は自分のスケジュールを医師に合わせる。病院の診療時間も限られていて、当然ー日に診きれない患者も出てくる。それでもその医師の診療を希望する患者は予約を待ち、そうでない患者は他の医師に診てもらうことを選ぶ。

   またあるパートタイム労働者は、たとえ仕事が残っていようとも、午前中で帰る(契約)ことを極力守るようにしている。そうして「〇〇さんは12時で帰る」ということを管理者に植え付けることにある程度成功したその人は、都合よく残業しないキャラクターと、それに基づいたシフトを手に入れつつある。

   自分のパフォーマンスを発揮するための条件を自ら設定して、極力それに対して妥協しないことがコンディション維持につながる上に、気持ちよく勤続するためのポイントになる。自ら設定したフレームの中で良いパフォーマンスを発揮しなければならない責任感が主体性を生むかもしれない。

   逆に、コミュニティや組織に対して「都合の良い」つまり、「いつでも呼び出し可能な」属性でいることは文字通り、「有り難く」ない。あることが、当たり前になってしまうから。そこに存在することの有り難さが再確認されることがない(ちなみに、そのような属性の付いている人は、往々にしてそのコミュニティを支える土台となっている人々であり、本来は不可欠な存在になるはずだ。しかし、それが不公平感を生み、他者への不寛容にならないように、自分の負担・自己犠牲度をきちんと調整する必要がある。『自分がこんなに頑張っているのだから』と他人へ頑張りを強要するようになっては論外だ)。

   良い(orムラのない)パフォーマンスを発揮し続けることで、その人の働きの質と価値が高まる。限られた条件下でしか手に入らない、貴重なもの(有り難いもの)になるから。それによって善意の自己犠牲によってコミュニティに対する「貸し」を作る感覚で手に入れる不健全な居場所とは異なる、もっと健全な居場所が作られる。初期段階から孤独というコストさえ払うことができれば。それが、「いい人をやめ」て「嫌われる勇気」という本屋で見かけるタイトルが示唆していることなのかもしれない。