「役に立つ」を疑う

   本当は新型コロナウイルスの感染拡大そのものが災いだったはずなのに、いつの間にか変化していたステージの上で、「社会的に役に立つ人間」「役に立たない人間」がふるいにかけられようとしているー自分が「役に立つ人間」の側でいるためなら、他人を平気でステージから蹴落としたり、新しいステージに「適応」できない/しようとしない他者に何らかのレッテルを貼り差別心をあらわにしたりするー人間の間での災が「感染・拡大」していく傾向が容易に予想できる。差別や排除・迫害といった二次災害の「感染・拡大」を防止するために、僕たちはいま一度「役に立つ」を疑った方が良い。

   「無用の用」という言葉の示す通り、一見無用だとされているものが実は大事な役割を担っていることがある。

   直ちに役に立たないものとしての「余裕」がどんなメリットをもたらすかについてあまりに有名な逸話がある。アメリカ・ミズーリ州の救急病院・セント・ジョンズ医療センターの逸話だ。セント・ジョンズ医療センターでは手術室をひとつ開けておくことで、元々の手術スケジュールが影響を受けなくなったというのだ。

ミズーリ州にある救急病院、セント・ジョンズ地域医療センターは、手術室の問題を抱えていた。三二の手術室で年間三万件あまりの外科手術が行われていて、その予定を組むのが難しくなっている。手術室はつねに予約でいっぱいなのだ。二〇〇二年、この病院の手術室はフル回転だった。そのため急患が出ると‐そして急患は全仕事量の二〇パーセントを占めるのが通例だ‐病院はずっと前から予定していた手術を動かさざるをえない。「その結果、病院スタッフは午前二時に手術を行い、医師は二時間の手術をするために数時間待つこともしばしばで、スタッフはしょっちゅう予定外の残業をしている」

(中略)

ひとつの手術室を緊急手術専用にすると、病院が受け入れられる手術は5.1パーセント増えた。午後三時以降に行われる手術の件数は45パーセント減少し、収入は増えた。試行期間わずか1カ月で、病院はこの変更を正式採用している。それから2年間、病院の手術件数は毎年7~10パーセント増加した。

 

「いつも『時間』がないあなたに‐欠乏の行動経済学‐」 センディル・ムッライナタン&エルダー・シャフィール(著)、太田直子(訳)

ハヤカワノンフィクション文庫より引用

   それまで手術室はフル稼働だったのを、緊急専用として手術室をひとつ空けておくことで、元々の手術スケジュールが緊急手術の影響を受けなくなったばかりでなく、トータルで受けられる手術が増えた、というのだ。

   最近テレビシリーズが始まり、再び話題になっている「レンタルなんもしない人」のエピソードを見たり読んだりするにつけて「特に、役に立っているように見えないこと」を必要としている人がいることに気づかされる。「レンタルなんもしない人」の仕事内容は「ただそばにいるだけ」。「仕事でしくじってしまって翌朝出社するのが怖いので、一緒に来て欲しい」とか「今日で東京生活を終えて、地元に戻るので、東京最後の日を一緒に過ごして欲しい」とか「ひとりで焼肉食べ放題に行くのは寂しいが、友達と一緒にいると喋っている時間がもったいない」など、「特に何かをして欲しい訳でもなく、ただ誰かにそばにいてほしい」人々のニーズが浮かび上がってくる。「レンタルなんもしない人」本人が「簡単な受け答え以外できかねます」と宣言していながら、沢山の依頼が入る。「役に立たないこと」が必ずしも本当に役に立たないとは限らないことを思い知る。

   働きアリの法則も有名だ。働かないアリがいることで、コロニーが存続する。働かないアリ(余裕)は他のアリが働けなくなった時の「予備」であり、その「予備」がないと一斉に疲労で動けなくなってコロニーが滅びるのが早いという研究結果が発表されている。

   直ちに役に立たない余裕を持っておくことのメリットを外から持ってくれば上に述べた通りだ。しかし僕が心の底から主張したいのは「役に立っている自分をディスプレイすることに躍起になる」ことの弊害だ。

「自分が役に立っている」という思い込みを強めれば強めるほど、他人に寛容でなくなるし

ガンバッて、役に立っている(ように見せる)ことが目的になってしまう。

   コロナ禍を通じて多くの人が「社会的に直ちに役に立つことが難しい」状況をとくと味わっていることだと思う。コロナ禍は早く過ぎ去って欲しい。しかし、コロナ禍を通じて「社会的に役に立つ」を煮詰める方向ではなく、「社会的に役に立つ」にまつわる従来の考え方を改める方向を向いていける社会になればと思う。

やることがなくて怒るひと・植松死刑囚の主張・コロナ禍は繋がっている

   「やることがなくて怒るボランティア(もしくは「気付き」によってなんでも「役に立つ」ができるボランタリーなワーカー)」「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.と「やまゆり園事件」における植松死刑囚の主張「社会的に役に立たない人間はいてはいけない」は多分、地続きだ。植松死刑囚の死刑を容認してしまうことがその主張を完全否定できないことをそれぞれの中に証明してしまい、それと同時に人々は自身についても「社会的に役に立たない人間はいてはいけない」という考え方に苦しんできた。そしてそこにコロナ禍における「社会的に役に立つことが難しい」状況がトドメをさすように訪れた。その結果、今後(もう既に)現代人の公正世界仮説信仰があらわになり、平然と他者を蹴落としたり、差別心をあらわにしたりする出来事に人々が出会すようになる、と考えている。公正さを部分的にでも捨てるのは納得がいかないかもしれないが、僕たちは今一度「社会的に役に立つ」を考え直す必要に迫られているように思う。


「やることがなくて怒るボランティア」と「植松死刑囚の主張」は共にそれぞれ「社会的に役に立たない人はいてはいけない(これを最後まで煮詰めると「殺しても良い」というところ:優生思想までいく)」と言う点で繋がっている。ある日、郵送物を三つ折りにし、封筒に入れる作業を一緒にしていた近所の子供にさえ「オカくん、手が止まっているよ」「サボっているとみなされると、会社をクビになっちゃうでしょ」とひたすら手を動かすように指摘されてしまった。そこにも、「役に立たない人間は、存在してはいけない」の芽の存在を認めてしまい、ドキッとした。

  植松被告(当時) の死刑判決を「そりゃ、そうだ」と考え、明確なロジックでもって完全否定できなかった多くの人が大なり小なり「社会的に役に立たない人間はいてはいけない(殺されても仕方がない人間がいる)」と考えているはずだ(そしてそれが植松死刑囚のロジックそのものであることを突きつけられた人々の心に大きな影を落とした)。それと同時に「社会的に役に立つ人間は、存在して良い」という公正世界仮説(人間の行いに対して公正な結果が返ってくる、というもの)に基づく考え方を信じながら、そもそも何をもってして社会的に役に立っているかの明確な基準が存在しない中で、人々はとりあえず善(い行いをするように見える)人であるように努め、「社会的に役に立っている」実感(及びそれを満たしてくれるための作業・仕事)を、実は生活の糧としてのお金以上にひたすら求めてきたのではないだろうか。

 

   植松被告の死刑を完全否定できなかった人は「社会的に役に立たない人はいてはいけない」という考え方を、言葉にしているかどうかは別として、多くの人が心のどこかに秘めていると思う(そうでなければ、やることがなくなったからと言って不安になるわけがない)。しかし、コロナ禍では社会的に役に立ちたくても立つことができない(難しい)。それでもなお「自分が社会的に役に立っているかどうか(ひいては、役に立たないものとして排除されないだろうか?)」という疑問を自らの中に強めてしまい、大変な不安が起こる。コロナ禍で人々が「植松死刑囚の主張」に大変苦しむ。それが表出し、増幅する。より一層、様々なレッテル貼りによる差別が横行することが予想される。

    コロナ禍で多くの人が「(これまで通り)社会的に役に立ちたくても立つことができない」状況にある。本当は無駄だとわかっていた(わかっていながらも、それが人の存在理由的なものと承認欲求を満たしてきた)仕事がどんどん炙り出されたからだ。対面でのやりとりが憚られるようになったからだ。そんな状況で、人々がわかりやすく「社会的に役に立てる」方法はずいぶん狭まってきたように思われる。それにも関わらず「社会的に役に立たない人はいてはいけない」という、植松の論理と地続きの考え方は、それが世の理だとばかりに人々の骨の髄まで染み込んでいて「社会的に役に立っている(実感の得られない)自分は存在してはいけないのではないのだろうか?」という不安とともに人々を襲う。公正世界仮説に基づく「存在していい理由が得られないのなら、それは自分が社会的に役に立っていないからだ」という考え方が、その不安に拍車をかける。

   それでもなお、自らの存在を他者からの承認に委ねている状態の人々は「それでも何か、役に立つことをしなければ」と「自分にできること」を努力して探し、それをディスプレイすることに躍起になる。その中でも特に公正世界仮説を信じている人々は、「もし、自分にできることを見つけられなかったのなら、それはその人の創意工夫・努力が足りないか、見つける能力が不足しているからである」「その結果、苦しむことがあれば、それは自己責任だ」などという考えに陥る。

   かくして、本当は新型コロナウイルスの感染拡大そのものが災いだったはずなのに、いつの間にか変化していたステージの上で、「社会的に役に立つ人間」「役に立たない人間」がふるいにかけられようとしているー自分が「役に立つ人間」の側でいるためなら、他人を平気でステージから蹴落としたり、新しいステージに「適応」できない/しようとしない他者に何らかのレッテルを貼り差別心をあらわにしたりするー人間の間での災が「感染・拡大」していく傾向が容易に予想できる。既に現れているかもしれない。

 

   「社会的に役に立たない人間は、存在してはいけない」及び「社会的に役に立てば、存在しても良い」という公正世界仮説に基づく考え方は、たしかに人びとを良い市民であることへと方向付けてきた面もあると思う。ただ、何をもって「社会的に役に立つ人間」かの基準は全く存在しない。仮に恣意的に作り出された基準が存在したとしても、実際に「社会的に役に立つ人間だった」たかどうかは、その人が死んでもなお、永遠にわからない。いくらでも「役に立った」理由、「役に立たなかった」理由を付与することができるからだ。コロナ禍で「役に立つようにディスプレイするのが難しい」ことがマジョリティの人々の目に映ったいま、我々は立ち止まり「社会的に役に立つこと」と「存在しても良いこと・存在理由」を切り離し、そもそも既存の「役に立つ」という概念自体を改めて疑う必要があると思う。

ムダの役割と余裕のない社会

   ボランティアワークにおける、承認を得ることを目的とした仕事は無駄でも良いのかもしれない、ということを先日の記事で述べた。

仕事は無駄でもよいのかもしれない 屁理屈のはなし - GoKa.

   ただ、仕事におけるムダはたとえそれが人々を食わせるためだとはいえ、(「より多くのムダな仕事によって多くの人が職にありつけていて、より多くの人が職場に包摂され、賃金も得られる」という状態を「余裕のある社会モデル❶」と勝手に名付けた。余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか - GoKa.)様々な弊害を生む。それに対して我々は「余裕のある社会モデル❷」を模索していかなければならない。「社会のシステムに置いて無駄が果たす役割」と、その結果どのような「余裕のない社会」が生まれるか、について、企業が労働者の面倒を見ることを丸投げされている「民営化社会保障(:下の記事で筆者が名付けた)」を踏まえて改めて考えたい。

 

どうして日本はみんなに直接現金支給しないの?と思った時に読む話 (1/2)

   コロナ禍において多くの人が抱いているであろう「どうして日本はみんなに直接現金支給をしないのだろうか?」という疑問について、この記事を読んで少し合点がいった。「何かを支給するのに何でも間に企業を挟むのが日本流」とのことだ。ここにも「ムダな仕事」のニオイがプンプンしている。この記事で筆者は、雇用調整助成金の拡充を通じて企業に手当てを打ち出している政府について、「日本政府は(雇用対策としては)手をうっている」という見方をしている。

   もしも、政府が国民に直接現金を支給してしまったら、「(政府から国民に何らかのもの・お金を届けるための)ムダな仕事」がなくなってしまう。ムダな仕事がなくなってしまうと、ムダな仕事の報酬としてのお金が民間企業に回らなくなる。筆者の述べるように現在の日本は民間企業が労働者の生活の面倒を見ることを丸投げされている「民営化社会保障」状態だ。その状況下で、民間企業に仕事とお金が回り、企業は税金を納め、そこで働く人たちが賃金を得て、賃金から税金を納める、というプロセスを手放すわけにはいかない(筆者が述べているように日本は「正規雇用の解雇は世界で一番ハードルが高い国の一つ」だ。その代わりに、「政府がまず手始めに支えなければいけないのは、頑張って従業員を守ろうとしている企業」だという)。

   ムダな仕事であっても、民間企業に仕事が回れば少なくとも「企業が法人税を納める」「人々の行き場所を作り、包摂する」「賃金から税金を取れるし、賃金は家計に収入をもたらす」という結果が期待できる。これは、機能としてはめちゃくちゃすごいものだと思う。

   しかし、「会社にいてこそ、面倒を見てもらえる」という事からどんな社会が生まれるだろうか?まずみんなが会社での居場所確保に躍起になるのだから、会社という世間社会への同調圧力が生じる。その結果、整っているが、ギスギスしている社会が生まれる事が想像できる。その中ではいじめが横行したり、差別的行為が行われたり、会社にいる理由としてのムダな仕事は無くならない(それこそが、人を食わせる理由になっているのだから!)し、ムダな仕事がなくならない限り、長時間労働も改善されない。

   ムダな仕事と民間企業を通じて人々が食っている社会は、人々が地域社会・地縁社会とは違った形で、社員である限り包摂され生活の糧を得られるような、“システムとして”弱者に優しい社会であると同時に、個々人として、自分の立場を守るために平気で差別する社会にもなりうる。そのような社会が発展していくとは考えにくい。

余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか

相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)

この記事に触発されるように、先日の記事でやまゆり園事件について触れた。

「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.

植松死刑囚は一貫して「この社会には余裕がないのだから(社会性・生産性のない人まで包摂できない)」という主張をしてきた。僕は「そんなことない、この社会には余裕がたっぷりある」と明確なNOを突きつけるロジックを持ち合わせていなかった。直ちに「この社会は余裕がある社会だ」と言い切ることはできない。では「余裕のある社会」とはどんな社会だろうか?僕はそれを「ムダな仕事によって多くの人が賃金を得て、会社社会に包摂されている社会」なのかもしれない、と考えるようになった。

   改めて「余裕」という言葉の意味は下記の通りだ。

1 必要分以上に余りがあること。また、限度いっぱいまでには余りがあること。「金に余裕がある」「時間の余裕がない」「まだ席に余裕がある」
2 ゆったりと落ち着いていること。心にゆとりがあること。

出典:デジタル大辞泉

これを踏まえて、余裕のある状態とはお金や時間、人・モノなどリソースが必要以分上にあり、その結果、心や行動にゆとりをもたらしている状態のこと、ひいてはそのような状態にある社会を「余裕のある社会」と呼ぶことにする。現状、社会人が過ごす時間の大半が仕事または職場に費やされるであろうことから、いわゆる社会人にとっての社会生活はほぼ「仕事」に乗っ取られていると言って過言ではない。以下、「社会の余裕を作る」アプローチについて、「会社または仕事の余裕を作ること」を思い浮かべながら読んでいただきたい。

 

   「リソースが必要分以上に余りがある」という状況を作るには、2つのアプローチがある。ひとつめは、「リソースの量を変えず、そもそもの必要量を減らしてしまう」ということだ。「リソースは増えない」という前提に立つとこういうアプローチになる。例えば、人もモノも金も時間も増えないので、不必要な作業や工程を洗い出し、「無駄をカットする」というのがそれにあたる。もう一つは、「必要量を変えず、リソースを増やす」というアプローチだ。リソースが必要量に対して既に十分あるとわかっていながら、さらにそれを追加し、余っている状況を作り出す。「無駄をカット」が主流の現代社会ではなかなかイメージしにくいが、既に必要分を満たすだけの人・お金・時間・モノがある状態で、さらに余裕を作るために増員したり、お金を用意したり、投入時間を増やしたり、必要に備えて予備のモノを用意しておいたり、というのがそれにあたる。

   生産性の向上という観点から余裕を作ろうとすると、非効率な作業や工程をカットし、無駄を省くことによって余裕を作り出すことが求められる。省力化・省人化が進み、生まれた人的余裕を、何もしていない余裕として持っておく事ができれば、それが本当の余裕になる。しかし残念ながら大概の場合、無駄は洗い出せば洗い出すほどに見えてきて、それと同時に従来存在していた作業に従事していた人々がその立場を追われることになることは想像に難くない(本当は、省かれた作業に従事していた人たちを、その時点では余剰な人員として抱えておいて、非常時に活用する事ができて初めて、余裕があってよかったね、ということになるのだが…)。 旧来の馬鹿馬鹿しいムダ・非効率な方法・不当な年功序列をムダだと糾弾し、省いていくことにはある種の快感があるようで、次にムダだとみなされ、カットされるのは自分たちかもしれないことを忘れてはいけない。

参考:この国は“無駄”で食っている - Chikirinの日記

 

  一方、生産性のことはさておいて、「より多くの人が包摂されている」という観点から余裕を作ろうとすると、後者のアプローチが求められる。既に必要量を満たすだけの人がいる状況で、さらに人を増やすことで、余裕が生まれる。人が増えたら、無駄でも良いから、仕事を増やす。仕事が増えれば、人が要る。人が必要になれば、雇い口が増える。雇い口が増えれば、賃金として家計にお金が回る。かくして、前提A下ではムダな仕事があって、より多くの人々を取り込める社会が、余裕のある社会、ということになる。

前提A:自分の労働の対価としての報酬を得る - GoKa.

 

  ただ、「より多くの無駄な仕事によって多くの人が職にありつけていて、より多くの人が職場に包摂され、賃金も得られる」という余裕のある社会モデル(それを「余裕のある社会モデル❶」と名付ける)は、どんどん合理化が進んでいて、無駄っぽく見えるものを許さない、まして、無駄を吊し上げる「正義中毒」な人々(これからは「人を許せない」気持ちが増幅していく/脳科学者・中野信子さん | MYLOHAS)がSNSに蔓延る(その姿勢が、結局さらなる余裕のなさにつながっているとはいえ…)現代社会において実現がますます難しいのではないだろうか。無駄を無駄とわかっていてそこに労力を注ぐ事ができるだろうか。僕にはその自信がない。我々は「余裕のある社会モデル❷」を模索していかなければならないだろう。

前提A:自分の労働の対価としての報酬を得る

「自分の労働の対価として報酬を得る」という前提を僕は勝手に「前提A」と名付けた。この前提Aは、極めてフェアである一方で、今後書いていく記事でも述べるが、社会の余裕を生み出す上でのネックにもなり得る。会社側にとって労働者を使役する都合の良い言い訳になったり、労働者自身も、過酷な労働環境に依存・過酷さを正当化する理由になったりするからだ。しかし、「コントラフリーローディング効果(苦労して手に入れたものほうが価値があると判断する脳の本質的なクセ)」はこの前提Aにうまく(?)マッチしてしまっている。そのようなことを踏まえながら今後この前提Aと合わせていくつかのことを述べていきたい。

仕事は無駄でもよいのかもしれない 屁理屈のはなし

   ボランティア、もしくは「気付きの労働(気づいたことはなんでもやれてしまう)」におけるワーカーに対して、いまの心境ならば自分が無駄だと思っている仕事(作業)を与えることができるような気がしている。チョッピリ。

   かつては(いや、今も割とそうだが)やることがなくて不安になり、怒りをあらわにするボランティアワーカー(「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.)に対して、そこにある不安に対する一定の合理性を認めつつも、その場しのぎの安心を与えてあげるための役割をご用意してサシアゲルことについてはかなり懐疑的であった。安心を与えるための役割をあてがう事が、本当に自分が必要だと思っていないことに他人を従事させたり、人々が自らできることを探す能力を否定したり、そもそも、役割がないとその場にいてはいけないというようなこと、「勤労こそが尊い」ということを暗に認めてしまったりすることになるからだ。さらには役割は役割であってもそれが「あてがわれた役割」「手加減の役割」であることは、割り当てられた人の尊厳を傷つけること(加えて、自分ならそうはされたくないと思うこと)だと考えてきたからだ。そこには自分なりのモラルによるブロックがあった。

   しかし「与える仕事(作業)が無駄でもよい」という屁理屈を2つ見つけた。一つには、ボランティアとプロジェクトリーダーは目的が全く異なるということだ。リーダーの目的は「プロジェクトの達成」だが、ボランティアの目的は「他者からの承認を得ること」と「(直ちに社会から排除されないための)やってる感・貢献感を得ること」だ。もしも、承認を得ることを求めていなければ募集に対して応募するという形を取らずにボランタリーという言葉の示す通り、既に自発的にやるべきことを始めてしまっているはずだ。リーダーが仕事・作業を「プロジェクト達成のための手段」と考えるのに対し、ボランティアにとっての仕事・作業は「承認・貢献感を得るための手段」だ。リーダーはプロジェクトが上手く進んでいればボランティアには休んでもらって構わないのだが、ボランティアからすれば承認を得るために働いているのだから、承認を得るための手段としての仕事・作業がなくて喜んでいる場合ではない。この辺は、一労働者としての我々が、巨大プロジェクト達成にどのように貢献するかどうかについては割とどうでもよく、そんなことよりむしろお金を得るための仕事がなくて素直に喜ぶことができないことと似ている。

   もう一つは「無駄な仕事であれ、何かしらの仕事を通じて人々が活動し、承認を得て、そこから生じる自信で次の社会活動につながる方が、社会全体としては得策だ」というものだ。これはケインズの『雇用利子および貨幣の一般理論』おいて「公共事業は無駄でも良い」と書かれていたことから得たヒントだ。(僕が実際に読んだのは漫画版なのだが…)公共事業の目的はあくまでも仕事と雇用を創出することで市場にお金を回すことであり、その目的が達成されるならば、公共事業は無駄でも良い。「(失業者が増えた状況を放っておいて)大量の人的資本を遊ばせている方が、社会にとって無駄」「公共事業に使われる税金は賃金という形で家庭に戻る」「無駄な事業だからといってお金を死蔵するより、無駄であろうと公共事業を通じて市場にお金を回すことの方が、よっぽど有益だろう」そんなロジックで、どんどん無駄な公共事業を興すべきだと書かれていた。お金の部分を「承認」に置き換えると、無駄な仕事・作業であっても、承認を得たくて働く意欲があるボランティアを放っておくのに比べれば、何かしらの仕事(しかも、できるだけ多くの人手を必要とするような!)を見つけ作り出し、承認を得られる機会の創出を図る方が社会全体としては得策である、というような事が言える。

   これらの屁理屈を踏まえると、自分では無駄だと思っていても、何かしらの仕事や作業を作り出し、与える理由ができるような気がしている。特に、「自分の仕事の対価として見返りを得る」という前提の下では、「何もしなくともダイレクトに収入や承認を得る」ということが出来ず(ベーシックインカム制度などで仕事と収入が切り離されている場合、無条件の承認が保障されていると思われる場合にはその限りではない)見返りを得るためのワンクッションとして仕事がないといけない。しかし繰り返しになるが自分では特に必要だと思っていない。その場合の声掛けは「〜があるんだけど、やってみますか?」というものになるだろう。

「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか

   ボランティアの人々に動いてもらう際に、既にやることが済んでしまってやることがない(与えられない)と怒り始める人に時々出会す。僕は、怒りは「不安」、さらに噛み砕いて言うと、あらゆる「わからなさ」から来ていると考えている。だとすれば、手が空いたことで「やる事はないのか」と怒り始めるこの人々について「アンガーマネジメント力が足りない人たち」で片付けるのではなく、 この人たちは何が「わからない」のだろう?という問いからさらに掘り下げることができる。手が空いているという状況で休むこともできず不安になり、やることがあてがわれないことで怒り出すこの人たちが「わからない」でいるのは「いつ、自分が『役に立たない者』とみなされ、排除されるか」ということではないだろうか?そして、この種の人々が最も、「役に立たない人間は排除されるべきである」という優生思想に強く囚われた、かわいそうな人たちではないだろうか。それと同時に、僕たちは優生思想からフリーであると言い切れるだろうか。

 

  「人間を、能力の高低や便益の大小で選別するのは仕方がない」。これに対して明確に「NO」を突きつける事ができるだろうか?もしこれを完全否定できたとして、これまで当たり前のようにに世界に存在してきた入試選抜や資格試験、公務員試験、その他テストによる選抜方法は、一体なんだったのだろうか? という問いに迫られる。 印象や上位者の好みで不明瞭なプロセスで選抜されることに対するアンフェアを許せない僕たちは、知らずのうちに「それは、(合格するだけの)能力がなかったんだから、仕方がないよね」という公平さと「これさえクリアすれば良い」という明確さからくる安心感をそこに認め、求めているはずだ(一方で「何を改善すれば良いのか」が極めて不明瞭なオーディションや就職面接に落ち続けると大ダメージを受ける)。

 

   今月16日にやまゆり園事件の植松被告に死刑判決が下った事は記憶に新しい。虐殺についてはこれまで報じられてきた判例から多くの人々が死刑という判決に大いに疑問を呈する事はないだろう。しかしこの死刑判決そのものが「生きている意味のない命」を肯定することになってしまうこと、それが植松被告の主張そのものであること、被告の死刑を肯定することを通じて正義の側に立ったつもりが、皆の心の中にある優生思想の表出を暗示してしまい、社会に大きな影を落とした。

  さらに植松被告は一貫して「社会には社会性・生産性のない人まで包摂し養う余裕がない」と主張してきた。「社会には本当に(能力のない者を養う)余裕がないのか?」という問いについて明確に「そんな事ない」を突きつけられる(突きつける“べき”ではあっても)ロジックを僕は知らない。少なくとも、その必要に迫られて効率化・省力化を進める社会にいながらにして、肌感覚では「そんな事ない」と言い切れない。それをほとんどの人が冒頭の「公平で安心な能力による選抜の容認」をもって受け入れ、暗黙裡として内包しているはずだ。「能力による選抜」をより一層強く信じる人々でかつ「役に立たなければ包摂されないのに、実際に自分は役に立っていないかもしれない」にいう不安に駆られる者とって「役に立たないとみなされること」はなんとしてでも避けなければならない。本当に役に立っているかどうかは別として、少なくとも「役に立っている風」を装っていなければならない。 

 

   冒頭の状況に戻ると、「せっかく来てやったのに、どんな風に役に立って良いか分からない」「手が空いてしまい、役に立っていないように見なされると、この、余裕のない社会で、いつ排除されるか分からない」ー「分からなさ」、つまり「不安」から生じる「怒り」の根本をそこに見出すことができる。いつ排除されるか分からない不安に怒り、眉間にシワを寄せて「役に立っていること」を装いーさらには「自分より役に立っていない人物」の存在を作り上げてでもー自分を守らなければならないような、周囲を困らせる人ほど、「能力による選抜」に苦しんでいるはずだ。そしてそれは残念ながら長く続かない、自滅の道に続いている。もしも心のどこかで「いなくなって、ホッとした」と思ってしまったら、我々もまた、その人たちとおんなじサークルの中にいることになる。「合う合わないって、やっぱりあるわよね」「きっと、別のフィールドがあるわよ」とか言いながら。