「つながりたい欲求」を直視してこなかった

 これまで、少なくとも7年間は不作為(「何かをすること」よりもむしろ「何かをしないこと」)の技術や思想を追求し、色々と文を書き連ねたり主張したりしてきたのだが、自分含め人々の「(作為:「なんかすること」 による)つながりたい欲求」を、たぶん直視してこなかった。それではどんなに不作為の技術や思想の正当化する言葉を並べても、理解されるはずがなかったのだ。

 コロナ禍で色々なつながりが切断された。それは表面上の快適さをもたらした。自分を含めみんなが手放したくて手放したくて仕方がなかった煩わしい人間関係から、一部解放されたような気分を味わえた。一方で、あらゆるつながりの切断がトンでもない孤独をももたらした。

 ここに来て、つながりへの再接続のときが来ているような気がする。ただそれは、「昔の〜」と呼ばれるものではない、別の形であるような気もしている。何が良くて、何がダメだったのか。つながりにおいて本当に大事な要素は何だったのか。生じてしまった時間でたくさん見つめ直したと思う。それを踏まえて来年は、改めて「つながりたい欲求」に向き合おうと思う。