2020-04-01から1ヶ月間の記事一覧

「役に立つ」を疑う

本当は新型コロナウイルスの感染拡大そのものが災いだったはずなのに、いつの間にか変化していたステージの上で、「社会的に役に立つ人間」「役に立たない人間」がふるいにかけられようとしているー自分が「役に立つ人間」の側でいるためなら、他人を平気で…

やることがなくて怒るひと・植松死刑囚の主張・コロナ禍は繋がっている

「やることがなくて怒るボランティア(もしくは「気付き」によってなんでも「役に立つ」ができるボランタリーなワーカー)」「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa.と「やまゆり園事件」における植松死刑囚の主張「社会的に役に立たない人間…

ムダの役割と余裕のない社会

ボランティアワークにおける、承認を得ることを目的とした仕事は無駄でも良いのかもしれない、ということを先日の記事で述べた。 ただ、仕事におけるムダはたとえそれが人々を食わせるためだとはいえ、(「より多くのムダな仕事によって多くの人が職にありつ…

余裕のある社会とはどんなものだったのだろうか

相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(3/4) この記事に触発されるように、先日の記事でやまゆり園事件について触れた。 「やることがなくて怒る」悲哀は他人事だろうか - GoKa. 植松死刑囚は一…

前提A:自分の労働の対価としての報酬を得る

「自分の労働の対価として報酬を得る」という前提を僕は勝手に「前提A」と名付けた。この前提Aは、極めてフェアである一方で、今後書いていく記事でも述べるが、社会の余裕を生み出す上でのネックにもなり得る。会社側にとって労働者を使役する都合の良い言…

仕事は無駄でもよいのかもしれない 屁理屈のはなし

ボランティア、もしくは「気付きの労働(気づいたことはなんでもやれてしまう)」におけるワーカーに対して、いまの心境ならば自分が無駄だと思っている仕事(作業)を与えることができるような気がしている。チョッピリ。 かつては(いや、今も割とそうだが…