「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」のはなし

 職場なんていうものがあるうちは、僕たちにはとりあえず毎日行くところがあって、自分の座るイスがあって、とりあえずやることがある。だから「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」といったことを考えずにむ。そして、与えられた休日に何をするかを楽しみにとりあえずの業務をこなす。そして、毎日「なんかやった」気分になっている。

 ところが、引退して以降はエブリデイがホリデイだ。歓迎すべきことだろうか?「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」といったことを、嫌でも毎日考えなければならない。もしくはそんなことを毎日考えるのも大変すぎて「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」なんてことを考えなくなるかもしれない。よほど毎日の生活に対する感受性を高めて、日常の解像度を高めることができれば、変化の少ない日常の中にも充足感を求めることができようが、そうでなければ日々の生活に対する張り合いが失われてしまう。

 曲がりなりにも僕はいま、若者を対象とした「場所づくり」的なことをしている。ところが、実際には仕事を引退した人と会う機会の方が圧倒的に多い。僕たちの場所を訪ねてくれる、仕事を引退した人々でかつ元気な人は「何かやること」「誰か会う人・話す人」を求めている。おそらく毎日「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」という問いに(意識されないにせよ)迫られている。そして、「とりあえず行く場所」「とりあえず会う人」のルーティンに(たぶん)組み込んでくれている。

 話の内容の大部分は昔話や自慢話だ。それらは一般的には若者に嫌われるものとされているけれども、何せそれが自分のアイデンティティを作ってきたのだ。当然といえば当然だ。マウントを取らんとする話をされることも珍しくないが、そうやって「あなたにはできなくて、わたしにできること」を探し、そこから自分の経験や知識を活かせる穴を見つけようと思えば無理からぬことだし、自分が遠かれ近かれ、将来同じく「今日は何をしようか」「今日はどこに行こうか」という問いに毎日迫られる立場になったら、同じことをしないと言い切れるだろうか?たぶん、言い切れない。そう思うと、無碍にすることはできない。