とりあえず「なんかした」証明が欲しくて

 「タックルを一本決めただけで、あとは試合の結果がどうであろうと、どうでもよかった」という感じだったのかもしれない。

 僕は高校時代にラグビー部に所属していた。(正確には思い出せないが)オフェンス(攻め)に自信がなくて、いまひとつ攻撃面ではパッとしないプレーヤーだったと思う。そんな自分が唯一の持ち味にしていたのが、ディフェンスにおけるタックルだった(それもまた、のちの首の怪我で危うくなった)。

 そんな僕はどういうわけか、(副キャプテンをやっていたことや選手層が厚くなかったこともあり)一応レギュラーだった。それなのに、自分が試合に出ることについて確たる自信が持てていなかった。そんな僕が試合に出たときは、タックルを決めることで初めて自分がその試合に存在していい理由を手にしたような気になれた。チームが勝つか負けるかということまでは考えることができず、「タックルを決める」ということを考えるだけで精一杯だった。要は、自分がチームに「なんかした」という証明が欲しかったのだ。引退がかかった試合でさえ、だ。この態度は決して褒められたものではない。そして、我ながらなんだかかわいそうだ。

 そんなことをふと思い出すにつけて、チームに「なんかした」証明が欲しくて、周りが見えなくなり、「"とりあえず"がんばる」ということに想いを馳せる。本当に本人が欲しいのは、「なんかした」という空疎な証明なのだろうか?