「若さを理由にしてはいけない」理由について

   僕は「まだ若いんだから」とか年齢の数字だけ見て「これから経験を積めば」とか、そのように言いくるめられてしまうことが度々あり、その都度モヤモヤしている(「もちろん、誰もがアッと驚く大した経験をしたかと聞かれればそうでもないのだが…「経験」はあくまでも人それぞれのものであり、年齢の数字に必ずしも同じ経験がパッケージされているわけでもない)。もしその人と同じ年になるまでわからないことであれば、そこには「覆すことのできない30年(くらい)の壁」というのがあって、いまここで何を言っても無駄だとさえ思ってしまう。やるせない。しかし自分には「若いからそういうことを言われるんだ」「年さえとれば」(もしくはより“オトナ”に見せる)というように若さを理由にしてはいけない理由がある。それは「自分も確かに歳を重ねていくという事実を受け入れられなくなるから」というものだ。

 キッタナいイラスト図に示したように、仮に自分の主張が受け入れられないということが、30年続いたとする。最初のうちは「まぁ若いんだし」というのが通じるかもしれない。しかし10,20年経っても変わらないとして「若いから」というのを理由にするには無理がある。その時間にも、時代の価値観や考え方はアップデートされていく。すると「若いから」を理由に28歳の時の自分の主張を曲げず、年を重ねるに従って、「こんなはずじゃなかった」という思いが募り、最終的には「アイツらが間違っている!!」と思い込みを、それこそ、年齢を重ねるに従ってどんどん強めていかなければ、いよいよ引っ込みがつかなくなってしまう。そうすると、どんなオジさんが生まれるかは言うまでもない。

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「くそ仕事」と「反RPA化」によせて、「暇」についての話をする

 事務作業のような「くそ仕事」はどんどんなくなって然るべきだと考えている。ちなみに、僕は実際に事務作業に従事している人たちを馬鹿にしているのではない。あくまでもそのような仕事には極力時間や心身のエネルギーを割くものではなく、できることなら早くやっつけてしまうべきで、それに誇りやりがいを見出すべきでもない、という意味において「くそ」だと考えている。事務そのものは、「遊び」を「仕事」たらしめるものであり、非常に重要なものだと考えている。

 実際、事務作業にかける時間は様々なツールを使うことでどんどん短くすることができるようだし、RPA化が時間削減につながっているのはもはや明確な事実と化している(以下のリンクを参照)ようだ。

 しかしそれと同時にこんな風にも思う。もし事務作業がなくなってしまえば、職員としての立場が残されていたとしても、その場で(与えられた仕事として、つまりそこにいる大義名分のようなものとしての)「やること」がなくなってしまう人はたくさん出てきてしまうんだろう、と(自分もそれなりにデスクワークをしているから「高みの見物」ではない)。

 このRPA化の波にとことん抗うこともできるのだが、RPA化はいよいよ我々が向き合って来なかった(向き合わずに済んだ)問いについて考えなければならないこともまた示唆しているようにも思う。

 

 いわゆるRPA(:ロボットによる作業自動化)について、興味深い2つの記事を見つけた。

 

弊社のRPA化が人権意識で吹っ飛びました。 - Everything you've ever Dreamed

この記事の筆者は会社のRPA化の方針に対し「削減された時間で本来取り組むべき仕事に時間と労力を割けるメリットが大きい」ということで賛成だったのが、管理部門のトップの「人権意識」のもとにその方針が頓挫したという話。その人物は(事務作業について)以下のような「人権意識」論を展開したという。

すると彼は「単純作業と雑にひとことでまとめられるのは心外だ」「それにそういう作業を奪われてやることがなくなるほど悲しいものはない」と切り出すと「我々の仕事を侮辱しているし、我々の人権を否定している」と言い、最後に「伝票のまとめかたひとつにも人間性は出てくるものなんだよ…」とご本人は心に響かせるつもりだがまったく心に響かないフレーズでまとめた。

それを聞いた筆者のボスも、結局「人権意識」の名のもとに自らぶち上げたRPA化の方針を覆してしまったようだ。

「やはり、人を相手にしている商売をしている以上、働いてもらっている人間の権利をいちばんに考えなければならないよな。よし計画は一時とうけーつ!」というボスの軽い一言で議論は終わった。こうして弊社のRPA化計画は、人権意識の前に敗北したのである。

RPAで時間がどんどん削減されていく - orangeitems’s diary

こちらの記事にはRPA化が大企業を中心に時間削減に効果を上げている調査を示しながら、「人権認識」と重なる部分について、かつてPCを使った“手作業”が多かったことについてこんな表現があった。

大企業では、そんなにたくさんの人がパソコンとにらめっこして、データを切り貼りして手入力していたということですね。そしてそれが、仕事となっていた。そして給料が支払われていた。生活の糧となっていたし、仕事の誇りとなっていた。

 先に挙げた記事の引用と重ねると、かつてはそのような作業仕事が、たしかに人々の仕事における誇りの一部であり、そうやって用意されたイスに座って事務作業をして、得られる給料が立派な生活の糧になっていたのだろうと推察できる。

 地域コミュニティにほぼ完全に取って変わってしまった職場というコミュニティにおいて、現場の職員がひとりひとり考えて実際に価値を生み出すことよりも、あくまでもその成員として「食わせること」を自他に納得させるため「働かざるもの食うべからず」の論理からの「隠れ蓑」としても「くそ仕事」が機能していたのだろう。

 

 生きていくには他者との関わりが不可欠だろうが、僕はコミュニティ意識を職場に持つにはもう限界が来ていると感じている。「生活の糧を得る場」「自己実現の場」「情報交換の場」「仲間意識」など、我々は仕事や職場というものに多くを求めすぎていた(そりゃ、起きている時間のほとんどを費やすのだから、当然といっては当然だが)。人間の手にちょうどいいような処理スピードで済むような“仕事”を、人のイスの用意のためにわざわざ用意し、それを管理するのがかえってコスト高になるからだ。それならば、機械に任せられる部分は出来るだけ任せて、そこで生じた時間の使い方をこそ考えていかなければならない(もし、それで本当に雇用が削減されてしまうならば「給与から税金を徴収する」という仕組みを改めなければならない)。その時間をそのまま休んでもいいだろうし、もしくはこれまで「くそ仕事」で埋められてしまって出来なかったような、自分の頭を使って追及する仕事に費やすべきだ。

 脱・根性論を謳うものとはいえ、精神論で恐れ入るが、そのためには、芯まで染み付いた「働かざるもの、食うべからず」に代表される勤労のイデオロギーから脱却しなければならない。『暇と退屈の倫理学』という本はこんな言葉で締め括られている。

退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いについて考えることができる。

 ともすれば「暇は悪」とか「暇があったら働け」などと考えてしまいがちだ。しかし定型的な「くそ仕事」はむしろ人間がやらない方が効果的だという時代にあって、我々はそこで生じた暇を「つぶすべきもの」「埋めるべきもの」と考えることなく、あえて暇を暇のまま引き受けるべきだ。その時間に自分の好きなことをしながら「スタンバイ」しておくことで、そこで生じた(良い・悪い問わず)出来事に対処することができる。しかしさらに深い層の問題は「そもそも、我々は勤労のイデオロギーの名の下に『好きなこと(やりたいこと)』を追求することさえ、阻まれてきた」ということだ。「好きなことをやろう!」スローガンを掲げることはできても、その精神性の根本の解決には繋がらないだろう。この問題については、また時間をかけて考えよう。

ボランティアワーク

 ボランティアはボランティアであり、責任がない。だからもし当日すっぽかしたとしても、その責任について追及することができない。そこに何かしらの事情があり、まだ人間関係が築けていない事実もあり、「社会ではそれでは通用しない」などと諭すことは僕の望むところではない。だけれども、すっぽかした人に対して何も言わないことは同時に「別に、あなたのことをあてにしていませんよ」というメッセージにもなりかねない。僕が伝えることができるのは、「あなたのことをあてにしていたから、『僕は』困ってしまった」という主観的な事実を伝えることにとどまる。そして、もしも本当に来て欲しいと思うならば、その人には事前に役割がなければならない。「与えられる仕事」よりも「取りに行った役割」と「そこに意志があること」を重視する自分に、(別に、役割に意志がなければただそこにいるだけでもかまわない)果たしてそれができるだろうか。

そもそも人間は考えることを望んでいるか

 僕はこれまで「自分の頭で考えること」を重要視してきた。それは、「(短期的に見た)より良い結果のため」というよりは「その決定に至るまでの自分の内的思考プロセスを知っていること」が、「後悔しないこと」「どうにもならない他者を責めないこと」につながり、それが小さい一歩一歩をすすめるドライブになると強く思っているからだ。そしておこがましいことながら、周囲の人間にもそうして欲しいと願いながら日々を送ってきた。しばしば「あんまり考えこまないように」などと諭され、「より、思考の少ない方へ」と手招きされるようなこともある(大抵、余計なお世話だ、と思う。ただ、そもそも人々は「自分の頭で考えること」を望んでいるのだろうか?という問いについては考えることがなかった。そんな時、『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)という本の以下の記述に出くわした。

 

 しばしば世間では、考えることの重要性が強調される。教育界では子どもに考える力を身につけさせることが一つの目標として掲げられている。

 だが、単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。

 人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないで済むような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっていくのは必然である。

 

確かに、僕たちは都度考えなくて済むように、都度話し合わなくて済むように、習慣を作り、ルールを作る。便利なツールを導入する。さらに僕たちは働かなくて済むことを目指して、より良い仕組みづくりのために考え、はたらいている。日々の業務や作業を、自分の中で極力ルーティンに落とし込もうとする(職場に慣れるまでは大変だが、ある程度慣れてきて「自動運転モード」に切り替われば後は同じような日々を過ごすことができる)。

 

 さらに著者は哲学者・ドゥルーズの思想を持ち出しながら、以下のように述べている。

 

  ならば人間がどういうときにものを考えるというのか?ドゥルーズはこう答える。人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである。「考えよう!」という気持ちが高まってものを考えるのではなくて、むしろ何かショックを受けて考える。

 考えることの最初にあって、考えることを引き起こすのは、何らかのショックである。ということは、考えることを引き起こすものは、決して快適なものではない。ドゥルーズはそのショックのことを「不法侵入」と呼んでいる。(中略)ものを考えるとは、それまで自分の生を導いてくれた習慣が多かれ少なかれ破壊される過程と切り離せない。

 

 そのうえでもし、他人に「考えること」を強く求めるならば、他人の生を導いてくれた思想や習慣に対して「不法侵入」するような存在になることから逃れられない。

 自分が強く疑った世の中の・身の回りの習慣をすこし「イジッた」ものを自分の行動に落とし込み、自分の言動を通じて他者の世界に「不法侵入」する。そこには少なからずコンフリクトがあるし、当然、嫌われる可能性がある。これは、トンデモなく孤独な作業だし、徒労に終わる可能性もある。

「みじめさ」と「おちごとの時間」のはなし 『暇と退屈の倫理学』を読んで

   今日は休みだ。今朝、僕の奥さんと一緒に作っている(自分が「やっている」と言って許されるのは3%くらい)借りた家庭菜園の収穫・手入れをしてきた。朝起きたままの格好で外へ出ていったから、iPhoneはおろか、腕時計さえもつけずに出かけていった。畑で採れたインゲンは時期が過ぎてちょっとカタそうだったが、これを味噌汁に入れたらどんなに美味しいだろう、と思いながら作業をしていた。時間が過ぎていったような気がするものの、時計がないんだから時間が分からない。作業した時間に関わらず、作業が終わりさえすればあとは自由な時間だ、とストンと思える感じがなんだか新鮮に思えた(もちろん、帰宅後はインゲンとキャベツの入った味噌汁を作って、味わい、楽しみ、二度寝をした)。

 

  「与えられた作業が終わりさえすれば、あとは自由な余暇の時間だ」という状況は「作業を早く終わらせること」のインセンティブになる。そしてそれは、今巷で取り上げられる「生産性の向上」につながる(「生産性」を主張する某著名ブロガーも「生産性を上げたければ、投入する時間を減らせ」と言っている)。その生産性が非常に高い人たちを僕たちはみんな知っている。「宿題は(テキトーにやって、)早く終わらせる」小学生たちである。とっとと終わらせて、指摘されたところだけ(渋々)直してやる。そんなモデルが身近にあったにも関わらず、僕たちオトナは「与えられた作業が終わりさえすれば、あとは自由な時間だ」などと思うことができない(指摘されうる正論を、さも持ちうる時間・身体的精神的リソースを全てを使い果たすこと自体が目的のように、「それだけやったのだから、できなかったのだ」と自他を納得させるようにしないと終われない)。

 

   前述の小学生とオトナの決定的違いは「自由時間にやりたいことが、ない」という大問題だ。気がつけば、内発的動機に基づいて「やりたい」などと思えることなんて全くない。自由時間が「おちごと」のデカすぎる存在に相対化されてしまい「明日のおちごと」の回復時間に成り下がる。いや厳密には「やりたいこと」は本当は考える間もなく既にやっていることの中にあるのに、「飯のタネになるか?」というおフダが貼らサっていて、そのおフダが唱える疑問に「イエェェェェス!」と大きな声で返事ができなければ、それはすなわち「なんか、ちがうこと」としてゴミ箱にポイされちゃう。そうすると大抵、飯のタネになるかどうかなんて確信できないから、何も残らない。「自由な時間ができたところで、やりたいことはない」「やりたいことがない自分は、みじめである」「それならば、お仕事を、せめて、『しているフリ』だけでもしよう」「そうすれば、みじめな自分を見ずに済むから」「(苦役としての)仕事をしていない、と思われちゃいけないから、ポーズだけでもしていなさい」。

 

   気がついた頃から、少なくとも受験勉強を頑張っていた時期から「スキマ時間」とか言って、寸暇を惜しんで勉強することが良しとされてきたし、それを良しとする価値観を自分の中に内包させていった。幸か不幸か、別にお勉強が不得意でもなかったから、別に苦でもなかった。

 

   ちなみに僕も3年前に「しばしお暇」をいただいいていた。その間僕は文字通りなかなか暇だったし、退屈でもあった。その退屈の中にあっても、「まずは自分を責めないように」ということをずっと考えていた。そんなことを考えていたという時点で、実際には自分を責めるような気持ちがどこかであった、ということだ。「乃木坂46」のバラエティ番組と『スターフォックス64』の実況を日がな一日横になりながら見て過ごした時間は、なんとも言えない感覚をもたらした。実際、なかなかみじめだった。別に誰かに必要とされるわけでもなければ、彼女(今では奥さんである!糟糠の妻)に極端な節約生活を強いてしまった。その他諸々のみじめさとずっと対峙してきた時間だった(僕はみじめさを完クリした、などと主張するのではない。対峙したことが一つの経験として残っただけで、今後もみじめさが顔を出す場面はいくらでもある)。

 

  みじめさは味わいたくない。わかる。だがもっと強く思うのは、そのよるべなさからくるみじめさから目を背ける先が、なんとなく「お仕事」に向かうと、「暇つぶしのポーズとしての仕事」をするようになり、結果「仕事のための仕事」が増え、労働時間はいつまでも長引き(酷ければ「働いていた方が気が楽」ということになる)、帰ってもすることがなく、たとえ経済力に余裕があっても生活そのものに余裕がなくなる。まるで薬の中毒者のように「仕事っぽいこと」を求め、「何かやった気」になって帰ってくる。そのスパイラルだ。

 

   まずは、そのみじめさをとくと味わわなければならない。そうでなければ、仕事はいつまでたっても終わらない。というより、“自らの意思”で「“お仕事”を終わらせるわけにはいかない状況」に執着しなくてはいけなくなる。

   

 

   

ドラマ『カルテット』「唐揚げレモン論争」にみる 「ハピネス」と「フェアネス」のはなし

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この図をご覧いただきたい。

さっぱり、なんのことか分からないだろう。笑

続いて、こちらのリンクに飛んで

http://motcho2.hateblo.jp/entry/quartet-1

ドラマ『カルテット』の第1話のワンシーンを

文字で追っていただきたい。

******************

カルテットの4人が食卓につき、揚げたての唐揚げを食べるシーン。

松田龍平が演じる別府司と満島ひかりの演じる世吹すずめが

「レモンかけますか」と皆に確認することなく、レモンを全体にかける。

それに高橋一生演じる家森諭高が異を唱える。

レモンをかけた2人は

「次からは気をつけますから、レモンぐらいで(怒らないで)」と家森をなだめる。

そこに松たか子演じる巻真紀が

「レモンぐらいで、ってことはないでしょう」と2人を止める。

「なぜ、レモンかけますか、の一言がなかったんでしょう?」

そこに重ねて家森が

「レモンかけるかどうか聞くときには、2つの流派があって」と話し始める。

 

家:レモンするかどうか聞くっていう文化にはさ、

す:文化…

家:二つの流派があって、

別:…流派。

家:わかりますよね?

巻:わかります。

家:きみたちレモンかけるとき、聞くとしてなんて聞く?

別:…「レモンかけますか?」

家:「あ、はい」

家:…………こうなるでしょ。

家:「レモンかけますか?」「あ、はい」

家:かけるの当たり前みたいな空気生まれて、全然大丈夫じゃないのに

「あ、大丈夫す」ってなるでしょ? これ脅迫ですよ? こっち防戦一方です

別:…どう言えばいいんですか

巻:…レモン、ありますね。

家:…レモン、ありますよ。

家:こう言うの。

 

「めんどくセー」と思っただろう。

 

もう一度この図をご覧いただきたい。

 

「ことばは他者とのインターフェイス接触面)に過ぎない」

「発せられたことばがあったとしても、

その裏にはたくさんの考えや気持ちがゴチャ混ぜになっていて

そのことばはそのうちの一部分しか言い表すことができない」

というのが僕の持論だ。

 

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「レモンかけますか?」の問いに対して「あ、はい」と答えたとき、

レモンをかけるかどうか尋ねた目の前の相手と

自分の心とのインターフェースはあくまで「あ、はい」という言葉である。

その時「あ、はい」は自分の気持ちを全て表していない、どころか、

ほとんど表現することができない。

 

「あ、はい」という言葉の裏には、パッと拾っただけでも

 

●「かけた方が美味しい」と思う人がいること

●レモンかけたらカリカリ度が減るよな…

●唐揚げは洗えない➡︎不可逆

●レモンがダメってわけじゃない

●角を立てたくない➡︎学級会のトラウマ

●あたたかいうちに食べたい

 

という思いや考えが潜んでいる。

その総合が「あ、はい」という言葉になってポロっと出てきてしまった。

結果、レモンがかけられていく様子を目の前で眺めながら、

自分が望んだサクサクカリカリの唐揚げとサヨナラする絶望に打ちひしがれる

ということが起こる。

 

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「言葉に出した」という事実による【公平性】を追求する【フェアネス志向】

を足場にしたならば、たしかに家森は「あ、はい」と言ったのだから、

文句は言うな、というのがただしい

(【フェアネス】が「強者の論理」になってしまっていることを

わかっているからこそ、自分の思いたちがちっぽけに感じられて

「あ、はい」と言ってしまったのだろう)。

 

「言葉だけからでは見出せない考えや思いが存在する可能性がある」と

想定して、それを尊重し(言葉の土俵にはのぼらないが)【その場の幸福度】を

最大限に高めることを、言語外コミュニケーションからも追求する【ハピネス志向】

を足場にしたならば、

 

言葉にならない部分の相手の考えは自分が想像するほかないが、

せめて「レモン、ありますね」と言葉を“置いておく”ことがただしい。

 

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【ハピネス志向】で物事を考えたとき、

「言われてもいないことを、先回りして」

「悲劇を、未然に防ぐ」というのだから、

往々にしてサービス精神過剰になる。

 

僕はどちらかというと「フェアネス」を求めるために

言葉を貯めてきたような節がある。

 

ただ、

 

「それでも追求したい幸福(たとえ、余計なお世話であっても

他者の満足する姿を見たい)がある」

 

という姿勢として、【ハピネス志向】タイプがたしかに存在することを、

このシーンから改めて考えさせられたように思う。
そして、【ハピネス】モードはたしかに自分にも訪れる。

 

問題は時間的・金銭的・精神的リソースが限られているなかで、

効果的な【ハピネス志向】の取り出し方を、

自分の過ごす環境を【今】から【未来】にわたり俯瞰して

あらかじめ想定される追求すべき他のハピネスとの比較の中で

優先順位をつけ、考えていかねばならないことだ。

それは、情緒で働く(状態の)人の生きがいにつながっている大問題だからだ。