本来、暮らしは楽しい

多分、「暮らし」というものは

本来は楽しいことだらけのはず。

それも社会が便利だからなおさら。

昨今のミニマリストブームは

それの象徴とも言えるんだじゃないだろうか。


ちょっと話は逸れて。

モノには本質的価値と付加的価値がある。

本質的価値とは、

「目的を達成できる価値」のこと。

例えば冷蔵庫なら、

食べ物を冷やしておくのが本質的価値で、

そういう冷蔵庫や家電は

きっと何十年も前から存在したはず。

それに対して付加価値は、

本質的価値に上乗せされた部分の価値。

同じく冷蔵庫なら、

中に入れた食品の賞味期限がいつまでを

教えてくれる、とか、自動脱臭機能とか、

スマホで出先でも中身を確認できる、とか

そういう本質的でない部分の価値のこと。

モノを売る側からすれば、

「とにかく付加価値を!」

という感じなのだろう。

そうじゃないと他との差別化が図れないから。

ただし、もう十分に世の中が便利になって、

誰もがあらゆることのハウトゥーを

ネットで調べられる状況が、

ここ7年くらいで急速に発達してきた。

自力でモノを冷やそうとする人はいないと思うが、

(持ち出した例が悪かった)

自分で鍋でご飯を炊く、とか、

自分で小さなドリッパーで

コーヒーをハンドドリップで淹れる、とか、

ちょっとスパイスを買ってきて

エスニック風なご飯をつくってみる、とか、

そういう身の回りの

自分の工夫の余地がある、そういう作業が

「暮らし」には詰まっていて、その

本質を自分で満たすことができた喜び、

というのは意外にアッサリと

「ちょっと面倒」

を上回ってしまうような気がする。

それでいて、ハイテク家電に囲まれずとも

身の回りはシンプル。そんな生活を

「おしゃれ」「シック」だとみなす動きもある。

(それが一過性のブームで終わるかどうかは、

その人が本当に「そうせざるを得ない」

ライフスタイルにあるか、とか、

その人の信念や美学によるところがある。)


ただ、暮らしの本質はきっと楽しいことばかりで、

(自分のことだと思っていくらでも工夫の余地がある点で)

「付加価値」ばかりを追い求めるために

モノを買い、飽きたり壊れたりしては消費し、

それでいて企業は儲け、

会社の儲けのために自分の時間を売り払い、

売ってしまってほとんどない「自分の時間」で

たくさんのことができるように、と

たくさんの付加価値のついた機械を買う。

そういうサイクルから脱却したい、 と思う人は少なくないはず。

(いや、機械に限った話ではない。

あらゆるモノ・サービスに対してもそう。)

それにしては今はずいぶんいい時代だ。