「忘れること」の話―東日本大震災復興イベントに寄せて

どんなに悲しい出来事も、

どんなに嬉しい出来事も、

出来事そのものには、

本来与えられた意味はない。

出来事の価値が、

他人に認められれば、意義になる。

出来事に意義を求めすぎては、それが

良かったにせよ、悪かったにせよ、

その出来事に縛られることになる。

もちろん、

過去の出来事に縛られて、

進まないことを自分に許すのも、

全く問題はない。

ただ、いつか、

彼らが、僕たちが、

自分のことを赦せますように。

自分のことを赦していいよ、と

教えてくれるものに、出会えますように。

そう願いながら、過ごしていくばかり。


【忘れることの意味】

「まぁ、人は忘れて進む生き物ですからね」

先日参加した東日本大震災復興イベントに

出演していたシンガーがそんなことを言った。

僕はそれを聞くにつけて

「出来事を忘れること」

「出来事の『意味』」

といったことをふと考えた。

そもそも、その復興イベントのテーマは

「忘れない」だった。


【「意味」と「意義」】

ところで、「意味」「意義」の違いを

気に留めたことはあるだろうか。

僕は最近までなかったのだけれども、

最近読んだ本には、

「意味」とは主観的な有用性

「意義」とは客観的な有用性

みたいにまとめられていた。

さらに、

「意味」とは出来事や物事に

はじめから与えられているものではなく、

「意味」を求める心の動きがあって

初めて本人の心に生じるもので、

それが他人に認められる形になったとき、

「意義」となる

ということが加えられていた。

 


【与えられた「意味」はないけれど】

確かに6年前のこの時期、

未曾有の大地震が発生し、

東日本を中心とする広大な地域が

地震による大きな被害を被った。

ただ、そこには

地震があった」という事実がある。

それによって、

行動や意識に変化があったという人は、

たくさんいるはずだ。

防災セットを設置したかもしれないし、

避難経路を確認したかもしれない。

明日が来ない可能性を改めて知って、

いま、目の前にいる人を、

一層大切にしようと思ったかもしれない。

大事なことや、自分の気持ちを

きちんと言葉にするようになったかもしれない。

何かしら影響を与えたならば、

それが「地震」という出来事への

それぞれの、「意味」になる。


【「意義」を求める辛さ】

「何とか自分の経験をムダにしたくない」

「何とか自分の経験を役立てたい」

という気持ちが生じるのは、

地震」という出来事に限ったことではなく、

さらに言えば、

悲しい出来事に限ったことでもない。

(言ってしまえばブログもその側面を持っていて、

その気持ちは僕もしばしば持つことがある。)

いずれにしても、

自分の経験に対して

「意義」を見出してもらおうとする

活動をすればするほど、

その経験のイメージを強く持っている本人こそ、

その経験を絶えず意識せざるを得なくなる

それが良かったにせよ、悪かったにせよ、

そのイメージに囚われることになる。

「ムダにしたくない」と思えば思うほど、

その経験を「忘れる」ことを

決して許さない自分が明らかになってしまうのだ。

新しい生活を始めよう、と思ったときに、

「忘れさせてもらえないこと」が

妨げになってしまわないだろうか。


【改めて「忘れること」とは】

「忘れること」は必ずしも

「なかったことにすること」と同義ではない。

本当に大事なこと・大事な人の記憶は

意識せずとも心の引き出しの中にある。

言われれば、思い出す。けれども、

普段はあえて出すことなく、

誰かに見えるようにするでもなく、

しまっておく。

この「心の引き出しにしまっておく」ことを、

「なかったことにする」こととは

全くの別物だと分からせ、

自分の心に、

出会った人や経験に「意味」を与えて

「しまっておく」許可を与えることこそ、

「忘れること」だと思っている。

地震に限った話ではない。

僕たちは自分の経験を

引き出しにしまうことを良しとせず、

誰かに「意義」を見出してもらえるまで、

何とかしまわずに出しておきたいと思いがちだ。

あわよくば、何とか誰かの役に立てたい。

そう思うのもムリはない。

(僕も、しばらくプータローをしているが、

そこには本当は意義なんて何もないのだ。

そこで考えたこと、感じた孤独、その他いろいろ、

ひょっとしたら誰かのためになるかもしれないが、

きっと、ならない。条件は人それぞれ違うから。

ただ、自分のためにはなる、かもしれない。

誰かに分かってもらえるかもしれないが、

たぶん、誰にも分かってもらえないと思う。

そもそも自分ですら「意義」はよく分かっていない。)

ただし、

「何とか『意義』を見出さなければいけない」

「しまっちゃいけない」という気持ちが、

新しい生活を送るのに妨げになるならば、

この先いつでも、過去の自分の経験について、

「忘れることを赦していいよ」と

知らずのうちに思えるような感覚を

教えてくれるものに出会えますように

そう、祈るばかりだ。