そこに意味はあるか −さらば、プータロー生活?

今のところ、

「自分を許すこと」に取り組んだ時間

という意味を一つ、与えたわけだ。

競争そのものからの離脱のみならず、

競争に向かわなければならないような

そんな強迫観念からの離脱を、「許可」してきた。

そのプロセスにおいて、

「自分は頑張っていない」という意識を得られるまで

「何もしない」ということを許した。

一日中ゲームをしている日もあったし、

スターフォックス』の実況動画を見て

寝っ転がっている日もあった。名作よ!

「働かなくても、食ってよい」ということを許した。

まぁ、高いものは食べなかったけど。

眠い時に寝た。だいたい二度寝した。昼寝もした。

たくさん歩いた。毎日1時間は歩いた。

たくさん本を読んだ。半年で170冊くらい。

生活のミニマムコストを探りながら、

限られた予算の中で楽しみを最大化すること、

そのものを、楽しんでいた。

お金がかけられないなら、自分でやればいい。

不便だったが、暮らしのなかに

手応えのようなものを感じていた。

そのほか、

言葉では書き表せないほどの結果=事実が生まれた。


皮肉なもので、

「おれはこんなに頑張っているのに」

と思えば思うほど、

周りの人が頑張っていないように見える。

「おれはこんなに頑張っているのに」

と思えば思うほど、傲慢な振る舞いをする

エクスキューズになっちまう。

「労働は、カッコ悪い」などと

うわべの話しているのではない。

「おれは全然頑張っちゃいないよ」

と思えば思うほど、

周りの人の働く姿が、愛おしく思える。

身近なサービスをしてくれた人に、

たとえ知り合いでなかろうと、

ちょっとアイコンタクトをしつつ

「ありがとう」と言わずには、いられない。


「おれは頑張っちゃいないよ」

ーーこれはただ「許可」の結果=事実だ。

これをもって僕は「勤勉教」からの離脱を果たした、

などと言うことは、全くできない。

自分の性格が変わったのではなく、そこには

ただ、「許可した」という事実があるだけだ。

再び「勤勉教」信者の中に放り込まれれば、

「許可を与えた」という結果=事実という

小さな小さな萌芽がいとも簡単に

摘み取られてしまう危険性をはらんでいる。

ただ、人間関係にしても、

僕は自分の手でより一層「孤独になる」

という決断を下した。

「失うのがこわい」という「マイナスへの恐れ」

ではなく、

「あれば、プラスになる」という「プラスへの喜び」

というように、ちょっとだけ見方が変わったか。

そこには、

人間関係をひとつ

「引き出しにしまっておく」ことに対する

マイナスの動機がはたらかないこそ、

馴れ合いを拒む自分を欺きそうになったとき、

すなわち、自分に不誠実になりかけたとき、

バッツリそこから自分を切り離す、

ということへのためらいが、ひとつなくなった、

・・・かもしれない。


貯金も有限だ。そろそろ年貢の納め時。

それでも僕は、働くことを

ただの「生活の糧を得る手段」と

割り切ることができない。

そこに自分なりの、何かしらの希望があって、

「手段」それ自体が、一つの目的になりうること

であることを、それでもなお、望んでいる。

そうなりうるものを選び、

そうなるように、楽しむ。

「職業に貴賎はない」という言葉。

仕事を選びつつ、

会社に選ばれる学生とともに

街にあふれるこの季節。

「職業に貴賎はない」

それを行う人次第で、貴賎が生じる。

いま、改めて思う。