どの部分をおカネで買うか?「生活の手応え」と「オプション」のはなし

 

鏡の前に立ち、

母の洗顔フォームを塗ったくり、

鼻の下を伸ばした間抜け顔で、

ヒゲの剃れていく手応えを感じながら、

シャッシャッとカミソリを滑らせる。

半月前にフィリップスのシェーバーの

調子が悪くなって以来、朝はこうだ。

そのカミソリというのも、

5本入りで100円のもので、

決して上質な代物ではないはず。

新しいシェーバーを買うまでのつなぎのはず。

でも、何とかなっちまっている。

(使い捨てなのに一本で2週間くらい使っている。)

この「ヒゲを剃る」という些細な行為にすら、

ちょっとした生活の「手応え」を感じてもいる。


「生活の手応え」と言えば、

最近ある教師の綴った文章に出会った。

教師の仕事は、

明確に何かを「生み出す」という実感が

やや薄いものであり、例え生徒の成長を認めても、

「果たしてそれは自分の指導の結果だろうか?」

と自らに問うことも少なくないという。

もともとは教育に対して

強い意気込みを持っていた若手教員が、

そうした現実に打ちのめ(?)されて

日々の雑務に絡めとられていく

(これをリアリティ・ショックと呼んでいた)。

そのうち、生活に手応えを無くし、

食事も出来合いのもので簡単に済ませ、

それが体調不良につながる。

そういうことを目の当たりにし、

また自身でも経験したことから、

「せめて食事だけでも」と

筆者は自分で食事を作ることにしていて、

そのための時間的・精神的余裕を作れるように、

生活を組み立てている、ということも書いてあった

・・・かな?


ここでは教師の例を挙げたが、

自分の労働=インプットに対して

成果物=アウトプットとの関連が

今ひとつ実感として得られない、という問題は、

現代の高度な分業制の下では

教師に限った問題ではないのかもしれない。

そう考えると

仕事が高度な分業になればなるほど、

生産性は高まるのだろうが、それと同時に

仕事の「手応え」を失うことになる。

そうなると、

インプットとアウトプットの関連が強い部分、

とりわけ、他の誰にも邪魔されない部分、

すなわち「暮らしの手応え」を渇望する気持ちが

生まれてくるのもまた流れだ。

高所得者に対するルサンチマンでもなく、

懐古主義者としての発言でもないが、

高価なシェーバー然り、

なくても「何とかなっている」現状に対して、

「果たして、その便利さをおカネで買う必要はあるか?」

ということを自分に問いながら、

しかし生活の手応えをまた、

自分のヒゲを剃る、ということから感じては、

その時間にちょっとした楽しみを持っている。

その時間があることを前提に、

ちょっと余裕を作らなければ、と思う。

(もちろん、「上質な手応え」とか言って

ここでジ○ットやシ○クの5枚刃カミソリを買っては

本末転倒である。あの替刃くそ高いからな!

それなら、安い電気シェーバー買うわ)

便利さがデフォルトではなく、

どの便利さをおカネで買うか?というのは

僕らに許されているオプションとして、存在する。