「匿名性」を先人たちは追い求め、勝ち取った

「親の干渉下から離れて、

立派な自分の家を持てた時、

核家族を築く主体となれた時、

人々はどんなにか喜んだだろう」

「お金というチケットさえあれば、

自分の人間性を問われずに、

何だって手に入る状況を手に入れた時、

人々はどんなにか喜んだだろう」

みたいなことをしばしば考える。

人の干渉から逃れること、あるいは

人との関わりをもたなくてよいことを

「匿名性」と呼ぶとすれば、

その「匿名性」というのは

先人たちが求めに求めて「勝ち取った」もの

という見方ができる。

貨幣経済然り、ウェブ世界の拡大も然り。

お金があれば、人との関わりを持たなくて済む。

ウェブ世界があれば、誰にもバレずに、

実生活に影響を及ぼすことなく、

鬱屈した心情を吐露することができる。

今となっては、どちらも

行き過ぎた使い方がなされるようになり、

ちょっとした「機能不全」を起こしている。

繰り返しになるが、

匿名性を人々が「勝ち取ったもの」だとすれば、

「つながりっていいよね」

「地域=あたたかさ」

みたいな上辺を繕った言葉に出会うたび、

僕はムズムズする。

(大抵、その裏には商売の影がある。)

もちろん、人の顔が見えることは、

トラブルのスムーズな解決に役立つ。

人の顔が見えれば、

日常のちょっとした困りごとを

「お互い様」の精神で頼み頼まれることができる。

それと同時に人の顔が見えることは、

良きにつけ悪しきにつけ「抑止力」になる。

改めて

人々が「匿名性」を追い求めた意味はなんだ?

それを考えながら、人々が自分の・相手の、

オープンさによって踏み込み具合を調節していく

「つながり2.0」を構築していくことこそ、

現代を生き抜く有効な手段になる。

つながりがそんなになくても生きていけるし、

お金がそんなになくてもきっと生きていける、

それくらいにはもう「豊か」な社会にいる。

だからこそ求められる「意志ある選択」。