公平性と「きみにきめた!」と「誰でもいい」のはなし

「公平を期す」ということと、 「君にきめた!」ということ、 これらはトレード・オフの関係にある。

「みんな一緒に」「公平に」というと、 「誰でもいい」となり、「あなただからこそ」が示せない。

何か人を集めようと思った時に 「(表面的にだけでも)みんなに公平にチャンスを」 と思って幅広く広報を行うことで、

本当は自分の頭の中では そのときそのときの「然るべき人」 (◯◯が得意分野だとか、◯◯に関心があることを事前に知っている、とか) というのがいても

「公平を期す」ならば、 セレクション性を伴う「一本釣り」(「君にきめた!」のこと) をすることができない。

その逆も然りで、 「一本釣り」だけを行うとすると、 「なんでおれたちには教えてくれなかったのか」 「内輪だけで盛り上がってるんじゃないか」 と批判されるのは必至だ。

個々のあり方を尊重しようと思えば、 時間のあるときに、 しかるべき理由があって集まって、 必ずしも「みんな一緒」でなくてもよく、 できる人ができることをすればよい、 いや、そもそも「集まらない」というあり方も認められる という主張が成立する。

しかし、 「みんな一緒に」「公平に」というと、 「誰でもいい」となり、「あなただからこそ」が示せない。

(だからといって

個々のあり方は認めない。 みんな、団体の・組織のことを第一に、 しかるべき理由がなくとも 招集されれば優先的に集合し、 「できない」者は「できる」者に倣い、努力し、追いつくこと。

みたいなのは絶対に嫌だ。)

 

「公平を期すこと」と「あなただからこそ」はそれぞれ、 どちらが良くて、どちらが悪い、という風には語られないのだけれども、

ぼく個人としては「人を選ぶ」という方をやや推したい。

そこで「消極的な公平性」の手段としては 「掲示板」方式が有効なのではないかと考えた。

確かに広報はしている。 けれどもそこに赴かない限り、 情報は入ってこない。 しかしその情報へのアクセス権には確かに公平性があり、 その情報にアクセスするか否かは、 あくまでもアクセスする者の意思にかかっている。