「何者かになる」ジレンマ

今の若い人たちは常に「何者かにならなければならない」という考えに追われるように生きている。 ここでいう「何者かになる」とは、「『自分の名前で』何かを成すこと」だと言えば分かりやすいか。 (個人でも組織の中でも「この人は(が)こんなことをした」と。明らかに気の強そうな女子学生たちは、口を揃えて「育給をしっかり取ってバッチリ子育てをし、キッチリ復職し、のちは管理職になる。そして自分がそのモデルになりたい」と言ったものだ。) それは間違いなく「生きがい」につながるし、そんな感覚を得たらそれが「やりたいこと」になるだろう。

とりわけ「自分の強い」人たちはそうだ。 いや、程度の差こそあれ、誰だってそういう思いは持っているはず。 ちょっとそのへんに勘のつく人(「できる人」とは言ってない)は、 「自分の人生は自分でデザインするんだよ」と、誰に言われるでもなく言い聞かせているだろうし、 実際、明文化されているかどうかは別としてそんな風潮の中で就職活動をしてきた。

みんな揃って黒のスーツに身を包んで、ウソか本当かよく分からない志望動機を述べ、 学生時代の功績を自慢しあい、内定を「取った」(この能動的な言い方すら、疑問に思う)会社の 名前で何となく残りの学生生活を鼻高々に過ごす、そんな有りもしない勝ち負けを競っているような就活ゲームに 気持ち悪さを感じる人もいる。

もしくは最初に入った会社でずっと過ごしてきたような、親世代サラリーマンの、電車の中で死んだ目をして スマホでくだらないゲームをしているのを見てきて、そんな風に思うかもしれない。 電車の中に限らず、自分たちが目にしてきた大人をふと思い出したとき、 もし自分がここから人生を選ぶことができるのなら、あんな風になりたくない、と思ったかもしれない。

僕の知っている某氏も、たとえ時として組織の方針と合わなくても、 組織のスピード感を圧倒してでも、「自分の信念を貫き、自分らしく仕事をする」ことが、 「『自分の名前で』何かを成す」ことにつながり、社益につながると信じているに違いない。 当然、そうした個人プレーは時として批判を生む。けれども僕にはその気持ちが痛いほど分かる(気がする)。

もしも、自分にできることが、 持ち前のフットワークを活かして、たくさん出張に行って、 持ち前のコミュ力と、持ち前の英語力を活かして、たくさんの人と会話をして、 自分のこと(or自分の商品)を知ってもらって…と言うことになれば、 自分の生きる道は、たとえ組織に“NO”と言われようと、自分にできることを信じて進むことだと思うのも納得。心から納得。

たとえその時その時の組織の方針とズレていたとしても、 その能力(性質)を持っている人がその組織にいない状況で、 かつ自分にはできることだ、と思うならなおさら。 僕だってそうだ。全く。

そういう「やりたいこと」は組織人としてますます人を苦しめる。 これは全くもって皮肉である。就活は「やりたいこと」を持っていないとパスできないのに、 会社にはそれまでなかった自分の強みを生かして、新しく始めたい「やりたいこと」が、 その時組織のやるべき事とは大抵一致せず、衝突するのだから。 会社にとっても皮肉である。企業が欲しがる「自主的な」タイプにこそ、そういう人が多いのだから。

(「自分の名前」で)、自分の強みを生かすこと、「何者かになりたい」という思い、 かつては求められたはずのことが、気づけば迷惑みたいになっている?

以上、常見陽平著『エヴァンゲリオン化する社会』を読んで思ったこと。