「いじめの機能」と「仕事レス社会」で「フリーライダー」とみなされないことの困難

  「従来の仕事」が少なくなっている・やらなくて済むようになっている「仕事レス社会」においては、他人にきちんと成果の出る仕事をしていることを示すのはますます難しくなっている。そうした難しさがあるにもかかわらず、(それを認めたうえで、本当に大事なこと・人間がすべきことは何かを考えずに)仕事(っぽいこと)をしていないことで自分を許すことができない・他人をゆるすことが出来ない人およびそうした考え方に出会してきた。そして僕はそうして環境を悪くしていることをやめるべきだと主張している。しかし「仕事をしているフリ」「暇そのものを許さない」という考え方にもある正当性があるのかもしれない。そこにある正当性を認めることで、新しい提案ができるヒントが見えるかもしれない。

  先日読んだ『ヒトは「いじめ」をやめられない』という本によると、人がいじめをやめられないのは、いじめがヒトの生存のうえで必要な機能だったことに由来するということらしい。 

  「他の動物のように突出した身体能力を持たないヒトは『集団』を作ることで生存してきた」「そして『集団』はその構成員がそれぞれ自らのリソースを出し合うことで成り立っている」「集団にとっての一番の脅威は『フリーライダー』である」「だから、集団の同質性から外れるような存在を排除し、集団を守るためにヒトはいじめをやめられないし、いじめる側にはそういう意味での正義がある」

そのような旨のことが書かれていたと思う(「フリーライダー」と「異質なものの排除」の間には論理の飛躍があるので要再確認)。

   ちょっと話がそれるが、僕は常々「従来の仕事が機械化された『仕事レス社会』において、それでもなお、自分にも他人にも暇を許すことが出来ず、働いているというそのポーズを示すために効率の悪い方法にかじりつき、勤労の精神について同調を求めるような態度は見直すべきだ」という主張をしている。そのために無職時代に直面した暇に向き合うことに始まり、「暇」についてと「働かざるもの食うべからず」のような勤労イデオロギーを薄めることについて、常々考えを巡らせている。

   上記の通りたとえ集団の存続という大義名分があっても「いじめ」という行動については、もはや擁護する余地はないだろう(というか現代のソレは「フリーライダーの排除」ですらないものが多い)。ところが大なり小なり人が集まれば、いじめに結びつくかどうかは別として「フリーライダーの排除」と「同調への圧力」というベクトルが働くことに一定の正当性があることは看過することができないようにも思う。それが、「仕事のための仕事」「仕事をしているポーズ」につながり、結果早く帰って早く休む、ということがしづらくなっている(割には結果が出ない)。

  そのうえで「仕事レス社会」における「役割の喪失問題」を考えると、目の前のあの人やこの人の考え(ポーズであれ「仕事をしているフリ」をせざるを得ない・自他に暇を許さない)の正当性とそれぞれの抱える事情に少しだけ近づくことができる。それを認めたうえで、うまく解消してやることが、悪びれることなくきちんと自分と他人を休ませることと、もはや従来の非効率的な手作業およびそこに込められる精神性にこだわることなく、新しく発生した「やるべきこと」に人を向かわせることにつながる鍵になる。

仕事レス社会における役割の喪失問題について

  世代交代が起こらない、仕事のための仕事をする、やらなくていい仕事で「くそ仕事」を生み出す、その他やってるフリにこだわる、自他に暇を許せない…そんなこと・人に嘆きつつも、時々「自分は現役世代だからほぼ無条件に『社会における役割があって/与えられて然るべきだ』という風潮にサポートされているに過ぎない」ということを思い出しては暗澹とした気持ちになることがある。寿命が伸びてもお金がなかったり、長い長い「老後」に生きがいが必要だったり、その他様々な理由で高齢者も働かなくてはならない「老後レス時代」において、社会における役割がなくなることは死活問題だ。自分はいわゆる「現役世代」であるという事実にサポートされているものの、我々は今している仕事を「しなくて済むように」働き、効率化を図っている。それに技術の発達も伴って、従来の仕事はどんどんなくなっていく。従来の仕事がなくなることで人間の手が掛からなくなることに起因する諸問題を僕は「役割の喪失問題」と勝手に名付けた。

  「役割の喪失問題」にはどのようなものが含まれているか。まずは自分の生に対する「誇り」が失われること。例えばかつては手作業でやってきた酒造りも、機械化が進んだことでそこに職人の経験とか勘がなくとも安定した質のお酒が作れるようになった。かつては手作業でやっていた事務作業、例えばデータのExcelへの手入力とか伝票の切り貼りとか宛名書きとか、「そこに人の精神があらわれる」と丁寧に誇りを持ってやってきたことも、だいたいもう20年以上前からPCでできることになった。今やむしろ人の手でやって方が非効率になることも増えてきた。

  もう一つは生活の糧が得られなくなること。仕事としての役割がなくなれば、「労働の対価としての賃金」という認識のもとでは労働者はお金を得られる理由がなくなってしまう。仕事がないのだから、残業する理由もない。賃金ベースが上がらなければ、残業代がなくなったことでほとんどの労働者は収入減に直結する(それを防ぐためには「労働の対価としての賃金」という考えを薄め、仕事の削減と同時に賃上げを行わなければならない)。

  残念ながら従来の仕事がなくなっていくことは避けられないと僕は思う。そのなかで一労働者としてできることがパッと浮かぶだけで3つある。⑴「やりがい」や「誇り」はもはや仕事だけに求められないので、仕事以外にやりがいや誇りを見出せるものを見つけること(そこで作り上げたものからは疎外されない)⑵新しい、名もなき仕事(「名もなき家事」のような、細かい作業の集合体)がもはやシステムの産物であり、それが立派な人間の仕事であると認識を改めること、そこに自分のやりがいを見出すこと。そして一番大事なのが⑶きちんと賃上げが政治に反映されるような投票をすること。

「『排除ムード』と『マイノリティの包摂』における個人主義的リーダーの役割について考えて高熱を出す」

  僕は長らく何かをするにあたって「そこに意志があること」を非常に大事にしていたという意識がある。「むやみに常識とかマナーとかで個人は縛られるべきでなく、そこに意志があれば、それに基づいて実際にやってみることが大事だ」と思ってきた。今だってきっとそうだ。しかし、「『マイノリティを社会に包摂する』ということを考えたとき、必ずしもそうではないのではないか」という疑問から、小さな壁にぶつかり、方針転換を迫られているような気がする。

  なぜそんなことを考え、方針転換を図る必要性を感じているのか。それはきっと僕の立場が変わり、いま曲がりなりにも、とある社会における「リーダー」の立場に(今までも何度もやってきて、何度も失敗してきている)あることに起因している。そして最近「あるコミュニティでの参加意志が表明されないことで、その構成員によってある個人が排除されるムードが生じている」事例に出会ったからだ。「参加意志のない人は出て行ってよし」という論理に基づく“排除ムード”は(たとえその当人に多数派が認める問題があったとしても)、そのまま見過ごすことができない、というか、「コミュニティ」とか謳っている以上、見過ごしていい訳がない。その事例に触れるなかで「自分は誰かを守れるだろうか?」という疑問が頭をよぎる。その度にそこはかとない焦りのようなものを感じる。その感覚を振り返るにつけて、僕はおそらく無意識のうちに理想のリーダーに求める資質のうち「誰か弱い立場の人を守れること」に重きを置いていることに気づく。

  これまで(大小に関わらず)ある社会での行動において「意志のある(と思い込んでいる)」自分の行動に対して、他の人の行動もまた、「異なる意志のある他の人の、異なる意志に基づく異なる行動」だと意識的に考えてきた。それに加えて昨今の溢れる情報の中で、自分と異なるものの感じ方(主に、悲観的な感じ方)に出会う。そうしてますます「自分は自分で、他人は他人」という思いを強める。多様性のコストだと思って、マナーと呼ばれるものに代表される「共通の規範」とか「常識」とか呼ばれるものからの逸脱行動については、結構意識的に許容レンジを大きめに取っている。それを「やさしさ」だと受け止めていただけるなら、それはそれで嬉しい。だがそこには「共通の規範に基づいて、目の前の他の人を『良い方』へ方向づけていく」という考えがあまりない。「なにが『良い』かは人それぞれで、自分は自分で、他人は他人で、それぞれ自分の意志に基づいた行動で、実際に痛い目を見ることで、行動を変えていけばいい」と言う具合にだ(その論理に則れば、「参加意志が表明されないということは、参加したいと思っていないのだから、参加しなくて良い」「そしてその後排除されようとも、それはその帰結である」ということになってしまう。それは大変ラクだが、結果的に個人の自由を尊重する反面で“排除ムード”の片棒を担ぐことになる)。目の前の人(もしくは自分)がそのコミュニティにおいて「良くない」方向へ行っていたとしても、それを止めることをサポートするだけのパターナリズム的考えが自分の中に存在しない。「誰かを守れるか?」という問いが頭をよぎるたび、なんとなく負い目を感じる。

  リーダーのような立場になければ、自分はただひたすら一個人として社会の、コミュニティの決まり事を疑い、その不必要な、もしくは過剰な部分について異議を申し立ていく「チャレンジャー」でいさえすればよかった。しかし、リーダーとして秩序を保つための決まりを作り、それに成員を(方法はどうあれ)「従わせる」ような…いわばその社会における「エスタブリッシュメント」側に回ることができるだけの「共通の規範」を、どこまで疑うことなく、所与のものとして受け入れられるだろうか。そうやって受け入れた「共通の規範」とか「常識」を(他の人には他の考え方がある、と強く思いながら!)盾に、どこまでマイノリティを守り、包摂できるだろうか?大した権限もないくせに考えすぎだろうか。また、頭を冷やして出直してこようと思う。

「今日は、あの人に会える」

 正直、心のどこかで「ドラマを観ることを楽しみにすること」を馬鹿にしていた時期があった。「どうせいつか終わってしまうのに」「流行り物だからだろう」「受け身の楽しみで…」など、これだけ並べるとまるで「懐古厨」のジイさんのようだ。そんなことを言いながら、今年の5月までテレビのない生活を送ってきた。

 ドラマをよく観ていて抱くようになったのは「この曜日になればこの人(俳優/キャラクター)に会える」という感覚だ。日々同じような人と過ごしているなかで、わざわざ出かけて誰かと会わなくても、曜日ごとに違ったキャラクターに会うことができる。その人に会う時間を、食後・入浴後、ゆっくり楽しむために「今日は早く帰ろう」と思う。残業しないための明確な理由がある。自分の時間はプライスレスだ。勤務時間中の時間の使い方が効率的になる。

「若さを理由にしてはいけない」理由について

   僕は「まだ若いんだから」とか年齢の数字だけ見て「これから経験を積めば」とか、そのように言いくるめられてしまうことが度々あり、その都度モヤモヤしている(「もちろん、誰もがアッと驚く大した経験をしたかと聞かれればそうでもないのだが…「経験」はあくまでも人それぞれのものであり、年齢の数字に必ずしも同じ経験がパッケージされているわけでもない)。もしその人と同じ年になるまでわからないことであれば、そこには「覆すことのできない30年(くらい)の壁」というのがあって、いまここで何を言っても無駄だとさえ思ってしまう。やるせない。しかし自分には「若いからそういうことを言われるんだ」「年さえとれば」(もしくはより“オトナ”に見せる)というように若さを理由にしてはいけない理由がある。それは「自分も確かに歳を重ねていくという事実を受け入れられなくなるから」というものだ。

 キッタナいイラスト図に示したように、仮に自分の主張が受け入れられないということが、30年続いたとする。最初のうちは「まぁ若いんだし」というのが通じるかもしれない。しかし10,20年経っても変わらないとして「若いから」というのを理由にするには無理がある。その時間にも、時代の価値観や考え方はアップデートされていく。すると「若いから」を理由に28歳の時の自分の主張を曲げず、年を重ねるに従って、「こんなはずじゃなかった」という思いが募り、最終的には「アイツらが間違っている!!」と思い込みを、それこそ、年齢を重ねるに従ってどんどん強めていかなければ、いよいよ引っ込みがつかなくなってしまう。そうすると、どんなオジさんが生まれるかは言うまでもない。

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「くそ仕事」と「反RPA化」によせて、「暇」についての話をする

 事務作業のような「くそ仕事」はどんどんなくなって然るべきだと考えている。ちなみに、僕は実際に事務作業に従事している人たちを馬鹿にしているのではない。あくまでもそのような仕事には極力時間や心身のエネルギーを割くものではなく、できることなら早くやっつけてしまうべきで、それに誇りやりがいを見出すべきでもない、という意味において「くそ」だと考えている。事務そのものは、「遊び」を「仕事」たらしめるものであり、非常に重要なものだと考えている。

 実際、事務作業にかける時間は様々なツールを使うことでどんどん短くすることができるようだし、RPA化が時間削減につながっているのはもはや明確な事実と化している(以下のリンクを参照)ようだ。

 しかしそれと同時にこんな風にも思う。もし事務作業がなくなってしまえば、職員としての立場が残されていたとしても、その場で(与えられた仕事として、つまりそこにいる大義名分のようなものとしての)「やること」がなくなってしまう人はたくさん出てきてしまうんだろう、と(自分もそれなりにデスクワークをしているから「高みの見物」ではない)。

 このRPA化の波にとことん抗うこともできるのだが、RPA化はいよいよ我々が向き合って来なかった(向き合わずに済んだ)問いについて考えなければならないこともまた示唆しているようにも思う。

 

 いわゆるRPA(:ロボットによる作業自動化)について、興味深い2つの記事を見つけた。

 

弊社のRPA化が人権意識で吹っ飛びました。 - Everything you've ever Dreamed

この記事の筆者は会社のRPA化の方針に対し「削減された時間で本来取り組むべき仕事に時間と労力を割けるメリットが大きい」ということで賛成だったのが、管理部門のトップの「人権意識」のもとにその方針が頓挫したという話。その人物は(事務作業について)以下のような「人権意識」論を展開したという。

すると彼は「単純作業と雑にひとことでまとめられるのは心外だ」「それにそういう作業を奪われてやることがなくなるほど悲しいものはない」と切り出すと「我々の仕事を侮辱しているし、我々の人権を否定している」と言い、最後に「伝票のまとめかたひとつにも人間性は出てくるものなんだよ…」とご本人は心に響かせるつもりだがまったく心に響かないフレーズでまとめた。

それを聞いた筆者のボスも、結局「人権意識」の名のもとに自らぶち上げたRPA化の方針を覆してしまったようだ。

「やはり、人を相手にしている商売をしている以上、働いてもらっている人間の権利をいちばんに考えなければならないよな。よし計画は一時とうけーつ!」というボスの軽い一言で議論は終わった。こうして弊社のRPA化計画は、人権意識の前に敗北したのである。

RPAで時間がどんどん削減されていく - orangeitems’s diary

こちらの記事にはRPA化が大企業を中心に時間削減に効果を上げている調査を示しながら、「人権認識」と重なる部分について、かつてPCを使った“手作業”が多かったことについてこんな表現があった。

大企業では、そんなにたくさんの人がパソコンとにらめっこして、データを切り貼りして手入力していたということですね。そしてそれが、仕事となっていた。そして給料が支払われていた。生活の糧となっていたし、仕事の誇りとなっていた。

 先に挙げた記事の引用と重ねると、かつてはそのような作業仕事が、たしかに人々の仕事における誇りの一部であり、そうやって用意されたイスに座って事務作業をして、得られる給料が立派な生活の糧になっていたのだろうと推察できる。

 地域コミュニティにほぼ完全に取って変わってしまった職場というコミュニティにおいて、現場の職員がひとりひとり考えて実際に価値を生み出すことよりも、あくまでもその成員として「食わせること」を自他に納得させるため「働かざるもの食うべからず」の論理からの「隠れ蓑」としても「くそ仕事」が機能していたのだろう。

 

 生きていくには他者との関わりが不可欠だろうが、僕はコミュニティ意識を職場に持つにはもう限界が来ていると感じている。「生活の糧を得る場」「自己実現の場」「情報交換の場」「仲間意識」など、我々は仕事や職場というものに多くを求めすぎていた(そりゃ、起きている時間のほとんどを費やすのだから、当然といっては当然だが)。人間の手にちょうどいいような処理スピードで済むような“仕事”を、人のイスの用意のためにわざわざ用意し、それを管理するのがかえってコスト高になるからだ。それならば、機械に任せられる部分は出来るだけ任せて、そこで生じた時間の使い方をこそ考えていかなければならない(もし、それで本当に雇用が削減されてしまうならば「給与から税金を徴収する」という仕組みを改めなければならない)。その時間をそのまま休んでもいいだろうし、もしくはこれまで「くそ仕事」で埋められてしまって出来なかったような、自分の頭を使って追及する仕事に費やすべきだ。

 脱・根性論を謳うものとはいえ、精神論で恐れ入るが、そのためには、芯まで染み付いた「働かざるもの、食うべからず」に代表される勤労のイデオロギーから脱却しなければならない。『暇と退屈の倫理学』という本はこんな言葉で締め括られている。

退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかという問いについて考えることができる。

 ともすれば「暇は悪」とか「暇があったら働け」などと考えてしまいがちだ。しかし定型的な「くそ仕事」はむしろ人間がやらない方が効果的だという時代にあって、我々はそこで生じた暇を「つぶすべきもの」「埋めるべきもの」と考えることなく、あえて暇を暇のまま引き受けるべきだ。その時間に自分の好きなことをしながら「スタンバイ」しておくことで、そこで生じた(良い・悪い問わず)出来事に対処することができる。しかしさらに深い層の問題は「そもそも、我々は勤労のイデオロギーの名の下に『好きなこと(やりたいこと)』を追求することさえ、阻まれてきた」ということだ。「好きなことをやろう!」スローガンを掲げることはできても、その精神性の根本の解決には繋がらないだろう。この問題については、また時間をかけて考えよう。

ボランティアワーク

 ボランティアはボランティアであり、責任がない。だからもし当日すっぽかしたとしても、その責任について追及することができない。そこに何かしらの事情があり、まだ人間関係が築けていない事実もあり、「社会ではそれでは通用しない」などと諭すことは僕の望むところではない。だけれども、すっぽかした人に対して何も言わないことは同時に「別に、あなたのことをあてにしていませんよ」というメッセージにもなりかねない。僕が伝えることができるのは、「あなたのことをあてにしていたから、『僕は』困ってしまった」という主観的な事実を伝えることにとどまる。そして、もしも本当に来て欲しいと思うならば、その人には事前に役割がなければならない。「与えられる仕事」よりも「取りに行った役割」と「そこに意志があること」を重視する自分に、(別に、役割に意志がなければただそこにいるだけでもかまわない)果たしてそれができるだろうか。