美しき公共心の国・ニッポンで、"イタリア人"になりたい

宮嶋勲著『最後はなぜかうまくいくイタリア人』という本を読んだ。

当然、イタリア人と日本人の対比が書かれているのだが、

僕はその対比のなかに「日本の若年層」と「日本の年長者」の

対立構造のようなものを感じた。

「日本の若年層」は"イタリア人"になりたいのだ。

老若共存社会で"イタリア人"を目指すとすれば、当然年長者には叩かれる。

それでもなお、社会的弱者である若年層が"イタリア人"を目指し、

この「美しき」日本社会を"イタリア人"的に生きようとすることには、

イタリアで生まれ育つのとはまた違う意味がある、と僕は思う。


冒頭でイタリア人イタリア人と言ってきたけれども、

この本で語られるイタリア人の性質は、平たく言えば

個人主義・楽観主義者的である一方で、著しく公共心に欠ける」

というものだ。

●楽観主義者としてのイタリア人

見出しからいくつかその特徴を挙げると、

・好きなことだけ楽しみ、嫌いなことは先延ばし

・短所は直さない、長所は大事にする

・目標達成ではなく、その過程を楽しむ

・どんな状況でも楽しみを見つける。

・いつでも仕事をし、いつでもサボる 仕事は「労働」ではなく「人生」

などが「楽観主義」的イタリア人の特徴だ。

これらはまさしく、強固な公共心によって

「生きづらい社会」と化してしまった日本社会への処方箋とも

言える考え方であり、「生きづらい社会」から身を守るべく、

最近の若年層が大事にしている考え方でもある。

●公共心に欠けるイタリア人

その一方、「公共心に欠ける」イタリア人の特徴として、

・「約束の時間(というもの)」が守られることは、まずない

・列をつくることができない

・(自分の住む環境ではない場所の)街を平気で汚す

・窃盗と盗品マーケットでの買い物が当たり前

といったものが挙げられている。

しかも、「そういうやつらにも事情があるんだよな」という

寛容さがあって、そういう状況を社会として許容してしまうから、

なかなかそういう状況は改善されない。

日本人的感覚からすれば、

そんなところに住みたいとは思わないだろうし、

住んだら色々カルチャー・ショックを受けるだろう。


公共心の国・ニッポンで"イタリア人"を目指す意味

だからこそ、

「公共心の国・ニッポン」で"イタリア人"を目指すことには意味がある。

公共心の国・ニッポンで

「物事の明るい面に目を向け、自分を信じる態度」のもとに

楽観・個人主義を貫くことができれば、むしろ気持ちよく生活できるのだ。

楽観・個人主義的行動を社会全体として許容していないからこそ、

公共心によって作り上げられた日本社会の便利な部分だけを、

(きれいな街、整ったインフラ、治安が良い、順序や時間を守る、など)

享受できるのである。

(便利な生活インフラを作り上げた人たちの労力は、お給料によって

キッチリ相殺されていることになっているから、

よっぽど協力な村社会にいない限りは、

「維持せざるもの使うべからず」などということもない。)

もちろん、ハードルはある。

親ならびに親世代および、その価値観を受け継ぐ多くの人たちから

評価され、彼らと協調することから、ある程度離れるということ。

「ある程度」とは言っても、

そこには理屈や正論だけでは越えられない壁があり、

それを越える方法はその人を取り巻く環境によって異なり、

その方法を見つけるには心の試行錯誤による個々の解が必要で、

しかもその解は場面場面によって微調整が必要で、

さらに残念ながらそれは誰も教えてくれないというのだ。

簡単ではない。

(繰り返しになるが、)逆説的だが、

その先にある「暮らしやすさ」は間違いなく

社会全体としては個人主義的行動を許容していない

という現状があってのことなのだ。


「それぞれ、正しい」

この本の優れた点はそのまとめにある。

身近なようでまったく異なる文化の二つの国を頻繁に往復していると、 どちらがいいとか悪いとか、どちらが好きとか嫌いとかの議論が いかに不毛であるかがよく分かる。それぞれの国が、長い時間をかけて、 それぞれのルールを築き上げてきたのだ。 重要なのは、それをよく理解することである。そうすれば、 意味のない誤解や不愉快な思いを避けることができる。 そのうえでその国が好きになれなければ、無理に付き合うことはない。

かつてアルバート・アインシュタインはこんなことを言ったという。

「常識とは、18歳までに培った偏見のコレクションである」

それならば、親世代と子世代で常識が異なることは、

例えいま、この瞬間に同じ社会を生きていたとしても、

火を見るより明らかなことである。

どちらも、「一理ある」と言うことができるし、

それぞれの世界では、それぞれが正しい。

そうとわかれば、せめて異世代間で共通の認識として持っておきたいのが

「こいつらとは、本質的に相容れない存在である」という前提だ。

そうした共通認識のなかで、若年層が"イタリア人"を目指して

年長者を変えようとするのではなく、積極的に離れることは、

かえってお互いのためになるだろう。

期せずしてそれも、新しい「公共心」と言えるかもしれない。