「休むときは休むこと」それもまた、公共心。

(昨日の記事の補足)

ニッポン型公共心の悪いところは、

(公共心を持つことを他人にも求めること。

確かに公共心は文字通り「公共」の心なわけで、

みんなが一斉に持つことで、その効力を発揮するのだけれども。)

公共心のなかにも「ムリしていない部分」「ムリしている部分」

とがあって、「ムリしている部分」から離れよ、

というのが今日の話。


ニッポン型公共心のなかでも「ムリしていない部分」とは、

サッと挙げてみると、こんなかんじ?

・泥棒しない

・置き引きしない

・落とし物は交番など然るべきところに届ける

・よっぽど緊急でなければ列を作る

・交通法規を守る

「これらの公共心が求められるせいで生きづらい」と思う人は、

少なくとも日本人にはほとんどいないはず。

一方、ニッポン型公共心で「ムリしている部分」とは?

・・・もう、キッパリ言ってしまうと

「自分が休んだら現場に迷惑がかかる」という類いのもの。

そう自分が強く思っている限り、簡単には休まないだろうし

他の人が休むことに対してもプレッシャーを与えることになる。

この悪しき公共心からは、離れるべき。

第一、(誰かが言っていたけど)

自分がいないくらいで「現場がなんとかならない」と思うのは

他の人たちが「なんとかする力」を持っていないと決めつけるのに等しく

さらに自分が思う「自分の現場への影響力の高さ」へのうぬぼれでもある。

 ・・・理屈ではこういうことだから、

最終的には「どの程度なら、安心して休めるのか」というのを勘案して

それでも「休む」というあなたのミッションを遂行する必要がある。

その向こうに「休むのはお互い様」という精神が生まれたなら、

それもまた、公共心だと思うのです。


集団意識の強い日本では、

組織のながーい歴史のなかで、

その一瞬だけ所属しているたった一人が、ちょっと休むことさえ なんだか難しいような気がする。

個人的な都合や体調が悪くても、ムリして出る人も多い。

ただその「ムリしている部分」さえ解消されれば

日本はずいぶん生きやすい社会であると思うし、

自分を信じて、周囲を信じて、「休むときは休む」ことこそ

取り入れるべきことであり、それもまた、公共心。