コンテンツはタダの時代?―キンコン西野「お金の奴隷解放宣言」に寄せて―

「自分が入った本屋で

全部の本がビッチリ包装されてたらどう思う?」

そんな問いを投げかけるところから始めたいと思う。


キングコング西野のブログ記事が炎上している。

「お金の奴隷解放宣言」という記事の中で、

「お金を理由に、子どもがアクセスできないのは

おかしいから、自分の手掛けた本を無料化する」

という内容を書いたことが発端らしい。

真偽のほどは定かではないが、

非難のコメントを見ると、どうもこの問題は

本を無料化したことそのものもそうだが、

「自分以外から集めた資金で」

「自分以外のクリエーターを使って出した本を」

「明確なクレジットを付けず、

我が物顔で『無料化宣言』した」

という点にあるように思われる。

それと同時に

「創作活動でお金を稼いじゃいけないのかよ!?」

という議論を提起するきっかけとなったことも見逃せない。

この記事ではその部分について書いていく。


「創作活動でお金を稼ぐのは悪か?」

という議論に対して、

それを善悪で語るのはもはやナンセンスだ。

ただ、現象を鑑みて

「コンテンツそのものには、もはや残念ながら

お金が払われる時代ではない」

という抽象的意見を導くことは、決して難しくない。

実際どうだろうか?

どれだけコンテンツにお金を払っているか?

僕たちは現状、

娯楽は無料のスマホゲームで事足りているし、

(しかも、さほど課金をしなくとも結構楽しめる)

ネット接続さえあれば、

YouTubeでミュージックビデオを見ることができるし、

Twitterで有名人の頭の中を、一部覗くことができる。

無料でマンガも読める。

無料でテレビ番組を見ることができる。

そして、そういう生活を享受している。


冒頭の問いに戻ろう。

本に書いてあることを知るだけなら、

立ち読みで事足りてしまう。

じゃあ、何で本を「買う」のか?

(ちなみに、電子版だけでも

2015年4月から25冊買っている。

それに加えて本屋で買った本もある。

自称「読書家」としては少ないが、

一ヶ月に1冊以上は買っている計算だ。)

その本に、いつでも、どこでも、

何度もアクセスしてインスピレーションを得たいからだ。

そのアクセス権にこそ、僕はお金を払っていることになる。

で、そのアクセス権への欲求は、

立ち読みによって、図書館での出会いによって、

つまり、タダでコンテンツ(=書かれていること)に

触れたことによって初めて生じたものだ。

だから、僕は入った本屋で

全ての本がビッチリ包装されていたら、

非常にガッカリだ。

(「この情報にアクセスしたければ金払え」

というのももっともだ。

そこにも合理性があるのは分かっているけど。)

実際に、立ち読みを形として「許している」

本屋の方が、売れ行きは良いそうだ。


コンテンツそのものにはお金が払われない時代、

お金になるかどうかの鍵は

「コンテンツをどう使うか?」であって、

もはやコンテンツのクオリティそのものではないのだろう。

その「コンテンツをどう使うか?」

という問いに踏み込めるのは、

「コンテンツを持っている人」自身か、

「『コンテンツを持っている人』を使うことができる人」

に限られる。

ただし、「コンテンツを持っている人」は

そのコンテンツそのもののクオリティによって

誰かの心を動かしたときに、

「そのコンテンツは自分が作ったものですよ」

ということが明確である場合、

その評価によって恩恵を受けることができるかもしれない

可能性(これを「評価経済」というらしい)を秘めている。

件の記事にはこんな風にある。

しかし僕は、『10万部売れるコト』よりも、
『1億人が知っているコト』の方が
遥かに価値があると考えます。
1億人を楽しませることができたら、
その瞬間は1円にもならなくても、
後から何とでもなると思っていますし、
なんとかします。
それに、「西野君、こないだはありがとね」と
夜ご飯ぐらいご馳走してもらえるんじゃねぇかな、
と思っています。

・・・このコンセプト自体には共感できるが、

問題は、その「一億人が知っている」人が

リエーターではなく、

スポットライトを当てられたキンコン西野だけ

と言う点だ。

評価もされなければ金にもならない。

それではクリエーターが報われない。

もしもそれが本当なら、

非難の的になるのは避けられないことだろう。)


先日、『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』

という本に出会った。

この本によると、

デジタル時代の今、

カネが払われるとすれば、

それは、(自分が慕っているものが)

その場にある、その「臨在感」に対してだ

ということだった。

今や音楽を聴くことそのものはほぼ無料と言っていい。

お金が払わるのは、

アイドルと握手できる権利や、

彼らミュージシャンのライブ・および限定品の物販だ。

入場料はライブの膨大な「ハコ」代に持っていかれるらしく、

収益の中心は物販だというから驚きだ。


「創作活動でお金を稼いじゃいけないか?」

という議論および今回の炎上に対しては、

「創作活動でお金を稼ぐのは悪いことではないが、

今やコンテンツのクオリティそのもので稼ぐには

あまりにもハードルが高い。

 

ただし、コンテンツを通じて得られる評価が

リエーターに何らかの恩恵をもたらすかもしれない。

裏を返せば、コンテンツ作りを、

自分の名前のクオリティにならないような、

他人のための労働と考えると、

その行為はますますツラくなる。」

という、答えになるようなならないような

結論を導くところで今回は締めることにする。

いずれにしても、

「炎上する記事」というのは

多くの人の関心を集め、考えるきっかけを与える、

と言う点で「良記事」と言えるのだそうだ。