結果はあくまで「副産物」

思うに、

「結果」は「目的」を目指す過程で生まれる副産物だ。

そして、誤解を恐れずに言うと、

その「目的」がエゴに基づくものであるほど、

たくさんの「結果」を産み出すことができる

とも思うのだ。

それで、その「目的」とはなにか?

それは「自分の理想」だ。

「自分の理想」は、その都度上書きされていくから、

完成形を見ることがない。

ただ、それに向かって走り続けるモチベーションは

与えてくれる。

「目の前にニンジンをぶら下げられた馬」を例にとる。

馬は、「ニンジンが好き」という主観的な好みによって

走りたいと思うのであって、

もし、ブロッコリーをぶら下げられても、

同じように走るだろうかと聞かれれば、

きっとそうとは限らないはずだ。

あくまでも、

「好きなもの」「ずっと追い求めていたいもの」

であるからこそ、走り続けるのだ。

走り続ける過程で、

「ニンジン」を得るために様々な試みがあって、

それがうまくいったり、いかなかったり、

ということがわかる。それこそが、「結果」だ。

しばしば、

「○○で一位になる」

といった類のことを「目的」として掲げることがある。

ただ、そのモチベーションまでは保証されていない。

このとき、それを「目的」として掲げるのは、誤りだ。

それは「目標」であっても「目的」ではない。

だから、大抵達成されないか、

達成されてもモチベーションが続かない。

つまり、「燃え尽き」的な状況に陥るのだ。

同様に、しばしば

「結果を残せ!」

と言われることがあるが、

結果は、本当に結果であって、

「出すための結果」ではないのだ。