老人の抱える生きづらさ―思想の「機能不全」―

「老人も生きづらさを抱えている」

という記述を見たとき、僕は驚いた。

いや、「驚愕の事実!」というものではないが、

自分が25歳ということもあって、

「若者の生きづらさ」という側面ばかりを

注目してきたせいで、見えていなかったのだ。


【老人の生きづらさ】

ちょっと前に『老人性うつ』(和田秀樹著)を読んだ。

著者は今年で57歳だから、

若者ではないが、老人というには早すぎる。

どちらかといえば「老人」寄りなのだろうが、

若々しい精神を保っていることは想像に難くない。

ちょっと横道にそれたが、

この本で述べられている

「老人の生きづらさ」は大きく二つ。

「老いの否定」と「キリスト教文化」だ。

「老いの否定」とは言うまでもない、

闇雲なアンチエイジングブームが示唆する

「若いことはいいことだ」という風潮と、

組織の「若返り」をよしとすることが示唆する

「老『害』」扱いだ。それよりも、

キリスト教文化」に対する指摘が面白い。

現代の世界を牛耳るキリスト教文化では、

老人は「慈悲をかけてもらう人」だという。

それに対して

もともと日本に根強くあった東洋思想の文化では

老人は「敬われる人」なのだから、

老人は、老人であるだけで敬われたし、

自身も若いころは老人を敬ってきたはずだ。

それが、90年代に入ってからの経済危機で

日本は急にアメリカ型経済に舵を切り、

それと同時にキリスト教文化も浸透してきた、

という指摘だ。さらに、

このキリスト教文化においては、

「できるやつが、尊敬されるべきだ」

「働ける人のほうが良い」

「稼げる人ほどいい」というような

「勤勉の価値観」が重視される。

キリストは30くらいで亡くなったのに対して、

儒教孔子、仏教の釈迦は70や80まで

生きていたのだから、

教義はそれも影響しているのでは、とのこと。

そういうわけで

「老人も生きづらさを抱えている」と言うのだ。

(ちなみに、老人というだけで敬われる

「自己愛・自己像システム」が崩壊しかけている

というのも、「老人性うつ」の原因だそうだ。

自己像・自己愛はあくまでも

内的なもの=自発的なものであるべきだ!

と思ってしまうのは、僕も

どちらかと言えば上記の「キリスト教」的な

考え方をしてしまっているからだろう。)


【思想の「機能不全」】

ここで出そろったのが、

「若者は、生きづらさを抱えている」

「老人も、生きづらさを抱えている」

という二つの事象だ。

これに対して浮かんだのは

「機能不全」というキーワードだ。

東洋思想が幅広く浸透していれば、

「歳をとれば、敬われるから、

若いうちは、年上を敬おう」という

循環が生じるし、

キリスト教的「勤勉」思想が

社会全体に浸透していれば、

「老人だからと言って敬われることはない、

だから、敬ってもらえるような工夫・努力を

していかなければならない」

という(まさに「成果主義」派の主張みたいな)

考えが全体として生まれるだろう。

それもまた、上手く機能すれば循環する。

ただ、現実にはそれらは「機能不全」。

環をなしていないのだ。

二つの思想のどちらの考えが

「正しい・間違っている」ではなく

その「機能不全」な状態こそが、

若者・老人双方の

「生きづらさ」につながっているのだ。


「若者」「老人」の

それぞれが生きづらさを解消するには、

老人が悪い、とか、

若者はなっていない、とか

自分は正しく、相手が間違っている、とか

そういうことを言っても何も始まらない。

ただ、もはや

思想の統制はできない」という事実に対して、

それぞれが、

どう積極的に行動や考え方を変えていくかという

ことでしか、主観的な生きづらさは解消されない。

つまり、(主観的に)

社会を生きづらいものにするか、

そうでないものにするかは

あくまでも自分の手の中にある。

そう思えば、いくらか希望が見えてくるのでは。