「生きる」の優先で規律意識は崩壊するか?①

【「生きる」の優先で規律は崩壊するか?】

という問いがこのところ頭を巡っている。

出家騒動で話題になった女優・清水富美加

騒動の直後に出した本

『全部、言っちゃうね』を昨日初めて読んだ。

そこに書かれていたある文に目が止まった。

「(仕事を)ぶっちぎってもいい、 人に迷惑をかけてもいいから、 まずは自分の命を守れ」 と言ってくれる業界の人はいるだろうか?

これに対して、テレビのコメンテーターが

こんなことを言っていた。

「いや、みんながそんなこと言い出したら

(規律意識が崩壊して)

めちゃくちゃになりますよ。

だから、辞めるにせよ、

残った仕事を片付けてから辞めるのが

スジってもんでしょう」

これはまさに紋切り型の批判だから、

こんな意見を他のメディアでちらほら見かける。

その一方で、

電通女子社員過労自殺をめぐっては

「死ぬくらいだったら辞めればよかったのに」

という、これまた紋切り型の批判があるのも、

わざわざ紹介するまでもないこと。


【「ブッチするか、死ぬか」】

仕事をブッチしようが、死んでいようが、

その人がその現場にいないことには変わりない。

「その人がいない」という状況そのものだけ見れば、

(メディアで大騒ぎされない時点で)

代役を探すとか、仕事を調整するとか、

打つ手立ては変わりないはずだ。

それなのに、

(死を未然に防いだという結果があったにせよ)

自らの意思によってブッチして、出家した

ことに対してもしも損害賠償を求めるならば、

(現時点ではその辺はおおっぴらになっていない)

それは「不在そのもの」への賠償請求というよりも

不在によって生じたあれこれの雑務を被ったから、

その不在を引き起こした「意志」への賠償請求

ということになる。

要は、「許したくない」という

「感情の問題」ではないだろうか

もしくは、こんな解釈もできる。

事前に交わした契約の中に

賠償請求規定があるとするならば、

「お金を払って欲しい」というよりは、

「(客観的な理由なしに)

辞めるとこんな罰がありますからね」

というお約束が「脱走」の抑止力となる。

「それを破ったから、約束通り、

請求させてもらいますよ」という解釈。

それに対して上記の主張は

「ただ、その『抑止力』に従っていたのでは、

そもそも生きる希望すら見失ってしまう」

というもの。これを、

本人のわがまま・メンタルの弱さとみなすか、

真のSOSとみなすか。

この問題の争点の根本にはそんな部分がある。

しかし、そこには客観的な尺度が存在しない。

だからこそ、根深い。

仮に、リストカットはじめ自傷行為の傷跡、

うつ病の診断書、他者が認める自殺未遂の事実、

それらは「客観的な尺度」になるかもしれない。

しかし本来はそこまで追い詰められるのを

未然に防がなくてはならない。行為・病気を経て、

あくまでも結果的に生と死を分けだだけなのだから。

続く