「生きる」の優先で規律意識は崩壊するか?②

前の記事の続き)

元女優・清水富美加の出家・引退騒動を巡って

「死にそうだったから逃げる」という行為は

本人のわがままやメンタルの弱さによるものか、

それとも、本当のSOSコールなのか。

そして、もし「逃げる」を容認してしまったら

「人様に迷惑をかけない」の精神に基づく

規律意識が崩壊してしまうのではないか。

そんなことから生まれた問い

「生きる」の優先で規律意識は崩壊するか?

それに対して、結論から述べると、

社会全体の規律意識は崩壊しない。

さらに付け加えると、

「逃げたい」と思ってしまったら、逃げたらいい。

しかし、逃げる行為そのものでは

自分は損をすることは免れようとも、

得をすることもない。

「逃げる」側と「逃げられる」側、

どちらに迎合するでもなく、

「逃げてもいいし、逃げなくてもいい」

という具合だ。


【「実存的な問い」という壁】

例え個人の都合で「逃げた」としても、

個人の中で規律意識が完全に崩壊することはない。

なぜなら、「逃げた」先にはまた

「実存的な問い」という壁が存在するからだ。

そしてその壁が立ちはだかる限り、

手放しで「他人に迷惑をかけてもいい」

などと思うことは、まず不可能だからだ。

この「実存的な問い」 とは何か?

これは、自らの存在意義に関わる問いで、

平たくいうと

「自分は何のために生きているのだろう」

という類の問いのことである。

(この問いを抱くことについては、

しばしば知ったような顔をした人に

「そんなの探したってムダ」

「自分探しか。若いね笑」

などというように退けられる。)

言われたことをこなしている限りは、

課題が用意されているから

この問いにとりあえず向き合わず済むのだが、

「逃げた」先に待っているこの

「実存的な問い」という壁は

容赦なく立ちはだかることになる。

この壁が倒れて来て、

押しつぶされた場合には、最悪の場合、死ぬ。

つまり、

自分を縛るものから解放されたと思った瞬間から

「自分の存在意義は?」という問いが

否応なしに自分を襲い

それに押しつぶされそうになると、

それこそいよいよ、

生きる希望を見失いそうになったり、

死にたくなったりすることに繋がるのだ。

「他人に迷惑をかけてもいいや」

と思えるほど、余裕がなくなるほどには、

直ちに「得をする」などとは言い難いのだ。


【それでも「実存的な問い」に立ち向かう】

それでもなお、

「死」を恐れる気持ちが機能していれば、

「生」に対する望みが、かすかにでもあるならば、

人はこの茫漠な問いに、立ち向かおうとするはずだ。

例え明確な答えが出なくとも、

「どうせ考えたってムダ」などと腐ることもなく、

「実存的な問い」に頭を悩ませる青少年を

軽蔑することもなく、

例え孤独の苦しみの中にあっても、

その問いに立ち向かい続ける精神が、

無意識のうちに生じる。

この「実存的な問い」という壁に対しては、

それを打ち負かすことではなく、

それに絶えず立ち向かい続けることこそ、

人生の目的だと僕は思っている。

(「人生の目的を考えるのが目的」

とは、本末転倒のようでそうではない。)

それに立ち向かい続けるためのカギは、

 

絶えず「他者貢献“感”」を得られるかどうか

にこそある。

人間は他者貢献「感」を主観的に得ることで

「自分は生きてていいんだ」という実感を持つ。

(これを、アドラー心理学では「共同体感覚」という)

積極的に「生きてていいんだ」と思えるように

絶えず「他者貢献感」を目指している限り、

心のベクトルは「他人に迷惑をかけてもいい」

という方向とは逆方向にはたらくのだ。


【まとめ】

 

たとえ、「生きる」ということを優先して、

仕事をブッチしたとしても

規律意識が崩壊することはない。

「逃げた」先に待っている

「実在的な問い」への答えを必死で探す過程において、

「他者貢献感」を目指す限りは、手放しで

「他人に迷惑をかけてもいい」とは思わないからだ