日常の「透明感」書き手の与える印象の話

「この人たちの書く文章からは

『透明感』という印象を受ける」

思わずそんなことを思う(?)書き手がいる。

僕の場合、その人たちは糸井重里氏と古賀史健氏だ。

糸井氏はいうまでもなく「ほぼ日」で有名だし、

古賀氏は一年前出会った本『嫌われる勇気』の著者だ。

この方々の(勝手に思う)共通点はというと、文字通り

「ほぼ毎日ブログ記事を書くことにしている」

ということ。

そして、僕はその記事をしばしば読んでいる。

日々の何気ない気づきを、

鼻息を荒げることもなく、サラリと書き記す、

そんなスタイルだからこそ、そこに

僕は「透明感」のようなものを感じ、

スルッと読めるなぁ、という感想を持つ。

一切の攻撃性を感じないから、

優しく諭されるように読むことができるし、

読みながら「何だこのヤロウ!」と思うことはない。

「透明感があるかどうか」

それはもちろん、良し悪しで語られるものではない。

「透明感」の反対側にある

「鼻息を荒げる」タイプの書き手からは、

これでもか!というほどの強いエネルギーを感じる。

思考が極端であればあるほど、ツッコむ余地がある。

だからこそ、「今度はどんなことを言うのだろう?」

というワクワク感がある。

どちらのタイプにしても、

それぞれの良さがあるのだ。

ただ、「とりあえず書く」ということにしていれば、

「思いついたら書く」というのではなく、

「今日はどんなことを書こうかな?」

という目をもって日々を過ごすきっかけになる。

多くの気づきを得て、それを形のするのは、

それだけで気持ちのいいこと。

もちろん、エネルギーを乗せて書きたいこともある。

それは、どんどんタブレットの「メモ帳」に貯まるから、

それこそ、腰を据えて書ける環境があるときに、

「ドヤア!」と言わんばかりの文章を書けば良い。

書き手の与える「日常の透明感」から、

「とりあえず書く」(書くことを習慣にする)

良さのようなものを、何となく思い出したのである。