読書のメタ的な部分の話 〜いま、「自分ごと」だと思っていること

どんなテーマの本のコーナーに

行くことが多いか。

どんなテーマの本なら、読んでいて

スルスルと頭に入ってくるか。

「本を読む」という行為のメタ的な部分、

そこに浮き上がってくるのは、

「いま、自分は何を『自分ごと』と思っているか」

ということではないだろうか。


「同じテーマの本ばかり読んでいないで

色々な本を読みなさい」

「色々なテーマの本を読むことで、

多角的な視野を持つことができる」

「同じようなテーマの本ばかり読んでいては、

視野狭窄に陥ってしまう」

そんな注意を、本から、他人から受けることがある。

その度に、僕は胸にチクっと刺さるような、

耳の痛い思いをするのだ。

図書館に行っても、本屋に行っても、

だいたい同じようなテーマの本棚に向かうことが多い。

さらに言えば、僕は小説が残念なほど読めない。

登場人物がどんな人間かをイメージすることが難しいばかりか、

そもそも、登場人物が何人なのかすら、

途中からわからなくなってしまうことがしばしばある。

そんなことを自分でわかっているからこそ、

上のような注意(忠告?)が刺さる。

「いろいろなジャンルの本を読んだ方がいい」

そんなことは、理屈ではわかっているのだけれども、

そもそも、自然と読もうという気にならないし、

おすすめされて読んだとしても、

読むのに力が入ってしまって、

「もうしばらくはいいかな」

と無意識のうちに思ってしまう。

これはちょうど、

「好き嫌いせずに色々なものを食べなさい」

という教育に似ている。確かに、

いろいろなものを食べる「べき」であることは

頭でなら誰でもわかっていることだ。

しかし、食べられないものは、しょうがない。

いくらレバーが健康に良いとわかっていても、

食べられない人は食べられないのだからしょうがない。


「読めないものはしょうがない」

「無理をして読んでも続かない」

それならば、次に考えられることは、

「そもそも、なぜ自分はこの類の本ばかりを

読み漁りたくなるのか?」ということだ。

おそらく、そこに浮かび上がるのは

「いま、自分が無意識的に必要としていること

または感覚的に興味のあるテーマについて

書かれているのが、それらの本だからだ」

という答えだろう。さらにそこから

「そもそもなぜ、そのテーマの本から

情報を得ようとしているのか?」

という問いに進めば、きっと

「そのテーマこそ、

今自分が直面している問題だからだ」

「いま、『自分ごと』と思っているテーマが

そういうことだからだ」

という答えが浮かんできはしまいか。


短い目で見れば、

同じような本を読んでいるかもしれないが、

長い目で見れば、

「自分ごと」と思うテーマも移り変わり、

読む本のテーマも、移り変わる。

実際に、自分の読書記録を見ても、そう。

そのとき「面白くない」と思う本を、

「視野を広げるために読め」ということは

いや本当に、もっともなことだ。

だからこそ、耳が痛い。

ただ、そもそも失いたくないものがあって、

それは

「本を読むことは、楽しい」

という頭の中の回路である。

きっと、色々なテーマに広げざるを得ない時が、

広げたくてしょうがなくなる時が、くる。

きっと、色々な食べ物を食べざるを得ない時が、

それか、嫌いだった食べ物も

無性に食べてみたくなる時が、くる。

それをきっかけに好きになれると、いいな。