あくまでも「楽しいもの」であってほしい「匿名性」と「つながり」の間

「シェアリングエコノミー」の概念は

結構好きでいるんだけれども、

ある種の「宗教性」や原理主義的思想に陥りやすい

という側面を持っている。

なぜなら、シェアリングエコノミーもまた、

参加者が増えるほど参加者が得をするゲーム

だからだ。ゆえに、

相手を取り込むことが、自分の得につながる

という性質を持ってしまう。

もちろん、これは貨幣の経済もそうだけれども。


そもそもシェアリングエコノミーの

重要性が人それぞれ異なるのは当然のこと。

アルバイトでも何でも、

親の手から離れて、自分で働き、

自分のお金を手にして、好きなものを

自分の判断のもとで買うことができる、

というステージにきたとき、

彼らはきっとその手段としての労働に対し

期待で胸を膨らませているだろう。

苦学生時代のアルバイト生活から脱して、

社員の待遇で給料を受け取るようになって

生活が楽になるという期待があれば、

それにもまた、希望を抱くだろう。

そういう状況にある時、

シェアリングエコノミーなんてのは、

正直、彼らにとってどうでもいいことだ。当然だ。


一方、自分の「好きなこと」「ライフワーク」

と呼べるものを見つけた時、それが必ずしも

お金にならない、お金にしたくない、

という人もいる。

もしくは、社員であってもその組織文化や

そもそも「雇われ」のメンタリティが合わない人もいる。

そういう人たちの間では、シェアリングエコノミーは

生活そのものに大きなメリットをもたらす。


ただ、双方が交わるとき、

それは「取り込み」「取り込まれ」ではなく

あくまでも「シェアが楽しいから」

というものであってほしい。お互いの

「匿名性(あえて、人間関係をつくらないこと)」

を大切にして、変な「オープンさ」を押し付けることもなく

関わることができたなら、

「匿名性」と「つながり」の間の

心地よいところが見つかったと言える。