自分の感覚は、ただそこにあるリアルだー「いじめのタネ」はかくも簡単に出来上がるー

自分の感覚は、世間的な正否を抜きにして、

「ただ、そこにある感覚」であり、リアルだ。

「間違っていないよね?」と言わんばかりに

共感を求めるその自信に欠けるメンタリティが、

いつの間にか「いじめ」のタネになる。


もしも、その場にいない誰かの「特徴」を、

(その「特徴」はしばしば「短所」と見なされるもの)

2人以上で共有してしまった瞬間、

それは「いじめ」のタネになる。

それが、本人にまで共有されて、

本人を含めて楽しく広まれば「キャラ」、

本人に隠れて、さもその認識の「正しさ」

(「わたし、間違ってないよね?」的なもの)

を確かめるように共有範囲が拡大すれば、

たちまち「いじめの構造」ができあがる。

大人の間ではそれが発現しないこともあるが、

たしかにその構造は存在し、やりにくい関係を生む。


そもそもの起こりは、

「私、間違ってないよね?」というように

共感を求めるその自信のなさにある。

いつも思うのは、

「自分の感じたことは、偏見であれ、

正しいか、間違っているかはさておき、

全てそこに存在する感覚であり、リアルである」

ということだ。

「納豆はおいしくない」がリアルなら、

「納豆はおいしい」も確かにリアルであるように、

「あの人のここが気になる」もリアルであり、

「あの人のそれは気にならない」も間違いなくリアルだ。

自分の感じたことを、

「その通り、そこにある感覚」

として自己完結できないメンタリティをこそ、

ここでは指摘する。


本人に言えないなら、他人と共有しない。

とはいえ、

実際に本人に告げるのは非常にハードルが高いから、

よっぽど周囲に害悪を及ぼすのでなければ、

どちらかと言えば、

自分の感覚を、ただ、そこにあるリアルとして

完結する自信を。