「ライフスタイル」を売る時代その「トレーサビリティ」を否定する!

「生き方を売る時代」

というフレーズが書かれていたのは、

『物欲なき世界』と言う本だ。

消費社会が成熟してしまった現代では、

もはやライフスタイル、すなわち

「生き方」くらいしか売るものがない

ということを皮肉って書かれたものだっただろうか。

「生き方」しか売れない時代に、

それでもなお、「売ら」なければいけない

社会というのは、なかなか辛いものだ。

しかし、最近しばしば心に浮かぶのは

「誰かの生き方が他の誰かの役に立つ」

ということがあるならば、僕は

自分の生き方が、誰かの生き方が、

決して他の誰かや自分の役にも立つことのないように

ということへの願いだ。

「誰の役にも立たないようなオリジナルな生き方」

という生ぬるい口調で、格好つけて語るものではなく、

「例え自分が納得した『生き方』の瞬間があろうとも、

決して誰の役にも立つことのないように」

という強い願いである。

自分の・他人の、

人生のトレーサビリティ(追跡可能性)を

ここで、キッパリと否定したい、というわけだ。

(僕は普段「生き方」という言葉には

「人生」や「生涯」というニュアンスを感じてしまい、

それをまだその途中にある人間が語ることは

他人ばかりでなく自分に対しても

不遜なことだと思っていることから、

その使用を控えている。

ある特定の期間または

未来永劫続くとは限らない時間における「生き方」を

「ライフスタイル」と表現して書き進めていく。

いわゆる「生活様式」とはちょっとニュアンスが異なる。

まぁ、ほとんど出てこないけど・・・笑)


「成功したければ成功者の真似をしろ」

という類のありがたい(?)アドバイス

いわゆる社会的「成功者」の口から語られることがある。

(大抵の場合、「オレの真似をしろ」というニュアンス)

それを耳にするたびに、なんだかムズムズする。

自分が、誰かが歩んできた道のりに、

さもトレーサビリティ(追跡可能性)があるような

語り方をするのは、「いま、ここ」の自分や他人に

対して非常に失礼なこと。

一方で「成功者」・他人の歩んできた

のりをトレースすればうまくいく

という考え方を持つ受け手からは、

自主性のなさが露呈するばかりだ。

「こうやったら、こうなる、うまくいく」

という因果関係で誰かのライフスタイルを切り取るのは

考えとしては明快なものかもしれない。

ただそれは、その先駆者・成功者が置かれた偶然の状況、

真のハングリー精神、ゾーン状態

全て偶然の条件が揃ってこそのモチベーション、

を無視したものにすぎず、

そのモチベーションは決してトレース不可能なもの。

(そういうことは本人ですら当たり前すぎて気づかない。)


もしも「『成功』の鍵」というものがあるとすれば、

先述の、

「偶然の条件の組み合わせから生じたモチベーション」が

そのうちの99.9%を占めていると思う。

それは、本人にしか分からないことだ。

それでも、

方法論の域を出ることのできない「真似」を

勧めるその態度にはある種の傲慢さを感じるうえ、

方法論の域を出ることのできない「真似」を

すれば上手くいくという考え方には、

勤勉なフリをして

あくまでも「いま、ここ」の自分を軽視する、

不遜さすら感じられる。

だから、ムズムズするのだ。


「自分のライフスタイルが誰かの役に立つ」

と思った瞬間、傲慢な態度が表れる。

謙虚さが失われる。

「誰かのライフスタイルが自分の役に立つ」

と思った瞬間、「いま、ここ」の自分に対する

真摯さや誠実さが失われる。自信が失われる。

だから、

自分の、誰かのライフスタイルが、

決して他の誰かの、自分の役に立つことのないように。

ライフスタイルには、トレーサビリティはない。

他の誰かの役には立たないが、

それを大事にしている自分の役には立つ。

それ以上でも、それ以下でもない。

ということで、どーすか!!