「あの人は、あんな人だ」「以上!!」

もしも、

「あの人はどんな人か?」

という風に聞かれたなら、

「あの人は、あんな人だよ」

と答えて終わりにしてみたい。

ただし、そんなことをすればおそらく、

「いやだから、『どんな人か』って聞いてるんだ。

『あんな人』では答えになっていないよ」

という答えが返ってくるはずだ。

それにもめげず、

「だから、あの人は、

『あんな人』だって言ってるじゃないか」

と返してみたい、と僕は企んでいる。

「あの人」は本来「あんな人」、すなわち

「それぞれが見たままの人」の域を出るべきでない。


かつて自分が

「この人はやりづらいな」

と思った人がいる。

後から話を聞いてみると、

実はみんな同じように思っていた、どころか

自分はただ「やりづらい」と思っていたところ、

既に「やりづらさ」を共有していた連中の間では

それがいつの間にか「イヤなヤツ」という

レッテルに変わっているような感じもした。

それを聞くにつけて、

僕は何となく安心してしまった。

「あぁ、やっぱりあいつはそういうやつだったんだ」

「あぁ、自分の感覚も正しかったんだ」

改めて思えば、

「やりづらいヤツ」と思うこと、

(それを超えて「イヤなヤツ」にまで変わること)

それを正当化してしまう危うさがあった。

「やりづらい」なりに、

どうやっていくか

(個人的に「付き合いを避ける」を含む)

を自分の感覚で考える課題を背負い、

自分で答えを出すことのできない自信のなさも、

おそらくその「安心感」にはあった。


ちょっと話は逸れて。

色覚に異常がある僕は、

(日常生活に支障を来たしたケースはほぼない)

並べられた赤と緑の見分けがつかないことがある。

そんな人は、男性の20人に1人はいるそうだ。

「あれは、緑色だね」

と言った人に対して、

「いいや、あれは赤なんだよ」

と言ったところで、

その人が「緑に見える」という事実は変わらない。

それなのに、

「あれは、本来赤に見えるべきなんだ...」

というバイアスが心を覆った瞬間、

次から

「『赤色だ』と指摘された緑」を

自分の目には緑に見えるにも関わらず「赤」と言う

ことが、正当化されてしまう。

身の安全にかかわる信号の色ならまだしも、

純粋に「どう見えるか」という主観的なものは

色であれ人であれ、

見たとおり、「こんな色」「こんな人」

それ以上でもそれ以下でも、それ以外でもない、

というので満足してはダメだろうか。

こと、その場の人間関係に関わる人の評価に関しては。


いずれ、その場にいない誰かについて

「あの人は、こんな人」と

具体的な言葉を共有してしまうことは、

その人をありのままに見ることの妨げになる。

アドラー心理学に倣って

「尊敬」とは「その人を、ありのままに見る」こと

という解釈をするならば、

「あの人は、こんな人」と

同じ場を共有する他の誰かと

具体的な言葉を共有してしまうことは、

それは、「軽蔑」になる。

他者に不遜な態度を取ることを正当化することになる。

「あの人は、どんな人?」

―「あの人は、あんたが見た通りの人だ」