言葉を「貯め」、「書くように」話す

「文中に出てきた分からない単語を調べ、

実際に作文をしてその語を使う」

「たくさんの文を読み、言い回しや

語の組み合わせを身につける」

この文はなんとなく外国語学習を思わせる。

しかし、僕はこの作業を、日本語について

行うことを楽しんでいる。

そんなことを昨日ふと思ったのだ。

こうした感覚を言い表すならば、

「言葉を『貯める』のが楽しい」

といったところ。


たしか齋藤孝氏の著書

『すごい「会話力」』という本だっただろうか。

話し言葉に対して、書き言葉はとんでもなく多い」

というようなことば述べられていた。

考えてみればそうである。

話し言葉には表情やボディ・ランゲージなどの

いわゆる非言語コミュニケーションが含まれる。

語順がバラバラでもニュアンスをつかめればいいし、

後からいくらでも情報を加えることができる。

「言語」の隙間を埋める手段がいくつかあるのだ。

(「慣れない英語で外国人を相手に会話をしたが案外通じた」

というのはおそらくこのことによる。)

それに対して書き言葉は大変だ。

コミュニケーションにおける

「言語」そのものへの依存率がきわめて高い。

(時々、文章から鼻息を荒くした

著者の表情が浮かぶ時があるが、基本的には)

書き言葉はニュアンスを内包している必要があるので

話し言葉とはそもそも語彙が違う。

書き言葉は表情が伝わらないので、

どの語を選択するか、で印象が変わる。

書き言葉では

基本的に語の並べられた順に読まれるので、

論理が立っていなければ、非常に読みにくい文章になる。

僕たちはネイティブ・スピーカーとして

普段から日本語を話しているので、

「日本語はマスターしている」

という気になっている。

しかし、こと「書き言葉」に関して言えば、

こちらはまだまだ開拓の余地がある。

それどころか、まだまだ未開の分野なのだ。


「自分の言葉は、不完全だ」

ということを、しばしば思う。

使えば使うほど、学べば学ぶほど、つくづくそう思う。

オリジナルな気持ちが心に浮かんでも、

ひとたびそれを言葉にしてしまえば、

手垢がついたような言葉になってしまう。

出来あがった言葉に、そこはかとなく漂う

「コレジャナイ感」

に日々、苛まれる。

数々の著者が表現した「陳腐な言葉」の裏に、

言葉にならないニュアンスを感じることもある。

(僭越ながら、「置かれた場所で咲きなさい」

という言葉だってそうだ。)

そこに表現しきれないニュアンスがあるから、

誤解・曲解する人が現れる。

そのモヤモヤを解消したいからこそ、

書き言葉を勉強する。

本を読み、せっせと書き言葉を「貯め」、

自分の気持ちを、できるだけ思いの通りに、

表現することができたなら、

例え誰にも認められなくとも、

それは完結した一つの楽しみになる。

それを実生活に持ちこんで、

「書くように話す」ことができれば、

これは強力な武器を手にしたも同然だ。


ただ、「書くように話す」ことにはちょっと問題がある。

それは、話し方がなんとなく「オッサン臭くなる」ことだ。

ほら、学校で習った英語を海外で話すと、

「古臭い言葉遣いだね」って言われるでしょ!それだよ。