外的要因は人の心を救うか

「不可抗力とか、外的要因は人の心を救うか」

ということをしばしば考えることがある。

以前ホテルで働いていたとき、

同僚のおばさんがいた。

彼女は「孫の世話を任されているから」

という理由があれば気兼ねなく休みを

申請することができたらしいが、

自身の体調不良を理由に休むことははばかられたそうだ。

結局、現場のマネジャーが

「(調子割るそうだし)もう帰ったら?」

と声をかけたところでようやく帰る、

という感じだった。

「休む日を誰かに決めてもらった方が」

という話は僕の父親からも聞いた。

父は定年を迎える前に勤めていたところでは

休みが決められていたそうだから、

それに合わせて休んでいたのだが、

定年後に勤めている会社では

ある程度そのあたりに自分の裁量がある。

そうなったときに、より自由なはずなのに、

なかなか休みを決めにくいのだという。

その感覚は、僕にも分かる気がする。

「(気持ちの上では)できるけど、

(自分のために)やらない」

と言うことを自分の意思で決める

という行為には、

様々なタラレバの可能性を排除しつつ、

強烈な自信のようなものを求められる。

自分の意志が試されるのだ。

かつて、ケータイもスマホもなかった時代は、

人から離れればすぐには連絡がつかない。

それは今からすれば不便だった半面、

対面でなければ邪魔をされない、

というメリットもあったに違いない。

「仕事の打ち合わせがいつでも・どこでもできる」

というのは便利さとスピード感をもたらした半面で、

「(気持ちの上では)できるけど、

(自分のために)やらない」

ということのハードルを課すもの。

それを決める意志が試される。