「車を運転すること」から僕が勝手に感じていること のはなし

最近読んだ本に 『ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも 行き詰まりを感じているならば、不便を 取り入れてみてはどうですか〜不便益という発想〜』

というものがある。タイトルが長いけれども、 しばしばそこに書いてあることが思い出される、良本だ。

そこで取り上げられている「不便益」という概念について、 僕は「車を運転すること」は確かにそれに当てはまると思っている。

車を運転していると、 歩道を歩いていたり自転車で走っている時とは違って、 違反をすれば罰せられたり、重大事故を招くような 交通ルール(および運転マナー)がある。

当然のことながら、 走行中の道路を、気分で止まったり、後進したり、 間違えて入った直進レーンから右折レーンに 車線変更したりすることはできない。

曲がるはずの交差点を、うっかり曲がり損ねた! じゃあ、と言ってその場でUターンすることもできない。 そういう時に限って、しばらく交差点がなく 道がただ真っ直ぐ続いている。

行けると思った道が、実は一方通行で こちらからは進入禁止だった! でも、車が来ていないからと言って そのまま突っ切って良いわけがない。

(ちなみに運転初心者の事故のいくつかは これらの車と歩行者/自転車の航行ルールの違いが 身についていないことで起こる)

ここまで色々述べてきたけれども、 つまるところ「車を運転すること」には、

「あらかじめ大まかな(むしろ、厳密ではいけない!)プランを頭で立てよう」

「経路を間違えた、もしくは思った通りではなかった場合に備えて 余裕を持ったスケジュールを立てよう (グーグルマップで15分と表示されたからと言って 15分で着くと思うな)」

「間違えても後戻りできないので、 すぐに『じゃあ、どうするか』を考えよう」

という3つの考え方が既に織り込まれている、ということだ。

この考え方は車を運転する時のみならず、 普段の生活においても役に立つ。

ジャーナリストの佐々木俊尚氏が自身の著書 『自分で作るセーフティーネット』で

「今後生きることは、

終着点の決まった電車にただ乗っていて 黙って乗ってさえいればそこへと運んでくれるのとは違い、

自分で自動車を運転し、周りを走っている車と その時々の挙動やパッシング・ハザードを使いつつ コミュニケーションを図りながら 自分で設定した目的地に向かって 自分で定め、ときに修正した経路に向かって ハンドルを切っていくことに近い」

という旨のことを書いていた。

これは言い得て妙、というべきだ。

僕からは大した根拠も示せずに 感覚から論じるのは恐れ入るが、

もはや「こうすれば、こう(良く)なる」と 将来が確約されない「不確かさ」の時代にあって

後戻りできない自分のライフタイム (人生という言葉はあえて使わない)を

ただ、自分都合だけで 「自意識からなる世界(しばしば『セカイ』と呼ばれる)」ではなく、 「自分の思う通りにならないルール」の中で 「自分の思う通りにならない他者」と コミュニケーションを図りながら、

過去の自分と他者を恨みながら過ごすのではなく、 それでいて確かに自分を大切に過ごすために、

上に挙げた3つの考え

「あらかじめ大まかなプランを頭で立てよう」

「経路を間違えた、もしくは思った通りではなかった場合に備えて 余裕を持ったスケジュールを立てよう」

「間違えても後戻りできないので、 すぐに『じゃあ、どうするか』を考えよう」

これが、僕の考える 車を運転することの「不便益」だ。 これらは完全に、ではなくとも ケッコウ、役に立っている。

もしも完全な自動運転の未来が訪れて、 そこにある「予定通りに着かない可能性」および 「人間は、間違える」という前提の 共有が薄れていったならば、

ますますこの世の中には 心の余裕が無くなっていく、 ということを、密かに危惧している。

とはいえそんな不便益は 普段車を運転しないような都会に住んでいる エライ人およびインフルエンサーの発する 「それで人がたくさん死んでいる現実を見ろ」 という「モットモな一声」によって、たちまち 失われていくのだろう。

最後のオチ、にもならないけれど

僕は、目的地に向かうときにグーグルマップの 「400m先をを右折する」という 抽象的な指示に従っている時ほど、注意が散漫になり、 実際に曲がり損ねるのを自覚していて、

逆に経路概要をグーグルマップで調べた結果から 「真っ直ぐ進んで『熊堂』という交差点は直進する」 「『小幅』という交差点を右折する」 「右手にセブンイレブンが見えたら、そこを右折する」 というのを考えながら運転している時は、意外と たとえ不慣れな道でも集中しているし、迷わない。