「やりたいこと」はアテにならない①

たとえば僕が「『朝マック』をしたい」と思ったとき、

じゃあ、どこでもいいからマクドナルドに出かけました。 マクドナルドに着きました。はい、じゃあ満足ですね!

…そんなワケないだろう!!笑

パッと頭に浮かぶだけでも、 僕が「『朝マック』をしたい」という言葉でもって どんなことをしたいかイメージするかと言うと、

「ソーセージエッグマフィンが食べたい」 「コーヒーを飲みたい」 「行きつけのマックの(他ではだめ) 広々とした空間で過ごしたい」 「本を読みたい」

という欲求が少なくとも含まれている。

さらに言えば、それらは互いに絡み合っていて

「まずはじめにソーセージエッグマフィンを ペロッと平らげたのちに、その満腹感を楽しみつつ、 コーヒーを飲みながら、この間ブックオフで買った、 今自分の中で知りたいと思うテーマの本を、 この、広い店内でゆっくり読みたい」

という欲求になっていることが多い。

僕が一言で「『朝マック』をしたい」と言ったとき、 少なくともこれだけのイメージが、 大抵のケースでは言葉にされることはなくとも、 含まれているのである。

もはや、 「朝、マクドナルドに行きたい」というような、 それさえ満たされれば満足するような 純粋な欲求は、ここには存在しない。

もし僕が 「サッカーをしたい」と言ったとき、 じゃあ、友達を連れてくるね!と言って出てきたのは 最近ようやく歩けるようになった子供。 優しくボールを転がして、あっちこっちに蹴ってもらって なんとか「サッカー」をしてみました! それで満足ですね!

いやいや、そんなワケないだろう!!笑

きっとその時の「サッカーをしたい」には

「夢中でボールを追いかけて汗を流したい」 「相手との駆け引きを楽しみたい」 「一緒にプレーする仲間に認められたい」 「一瞬のフェイントで相手を抜き去る快感を味わいたい」 「シュートを決めたい」

みたいな「〜したい」がたくさん含まれていて、 それらが満たされて初めて 「サッカーをしたい」と思う自分は 満足するんじゃなかろうか。

「サッカーをしたい」と言った時、 「はい、じゃあ一人でやっておいで」と言われて 満足するような純粋な欲求では、もはやないのだ。


言語表現としての「〜したい」は、 その背景にある膨大なイメージのほんの一部を 他人に伝えるための「インターフェース」 (接触面・境界面)に過ぎず、 「〜したい」はあまりにも不完全である と言わざるを得ない。

(逆に“完全な”「〜したい」は、おそらく 「食べたい」「ウ〇コしたい」「ヤリたい」、 その他生存にまつわる欲求だろう)