「群れてはいけない」属性と「カルト」と「暴力」のはなし

ゲームに出てくる悪役には

・子供の頃から引きずっているコンプレックスをもとに ・ふとした瞬間に手にしてしまった強大な力を使って ・自分の理想の「善」の世界を目指す中で ・それが行き過ぎて、「悪」になる

というものが珍しくない(と誰かが言ってた)。

そんなところから始めよう。


思うに 世の中には「群れちゃいけない」属性の人がいる。

それがどんな人かと一言で表すと、逆説的ながら

「つながり」とかいうワードを頻繁に持ち出す人々だ。

もうちょっと突っ込んで説明すると

「つながり」という新しい行動秩序を求めて、 環境や健康、災害などを持ち出しては 他者の感覚的な「怯え」の根源に対して 理性的な顔をして訴えて 「新しいモノサシを優しい顔で押しつける」ような 「布教活動」の類のことを行う人々

のことだ。

なんで群れちゃいけないか、簡単に言うと こういった人々はすぐに暴力的になるからだ。

ここでいう「暴力」とは、 「殴る蹴る」というよりは、「ハラスメント」に近い。

この「つながり」という新しい行動秩序の中では 基本的には常にそれぞれ 「こんなに正しく強い素晴らしい想いを持っている自分」がルールであり、 それぞれが「教祖様」だ。

「環境破壊や現行の経済の行く先を見据えたときに、 あなたの今の知識では計り知れない恐怖が 今後日本や世界を覆うので、 今のうちから『つながり』を実践しておいた方がいい」

という類の文句で他人の恐怖に優しい顔をしてつけ込み 「つながり」に取り込もうとする構造は かなり、カルト的である。

(ついでに言えば、この秩序の中では 「つながり」は「つながりだからつながり」なのであって 「教祖様」である自分の基準で「不合格」と認定したか、 もしくは「つながり」の外側にいる人々は、 つながっていない「ソトの人」なのだ。 ここに排外的思考が見え隠れする。

そうして集まった「つながり」には、結果として 同じような考えの人しか残らなくなり、結果 オープンに見せかけた「つながり」がタコツボ化する

参考URL

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20180429-00084614/

ここに、相手のものの感じ方、つまり 「他者のモノサシ」を無視して、 「自分のモノサシ」が正しいと 信じて疑わず、

「(自分の採用する論理において)正しいから」 という理由にのみ頼って それを他人に押しつけるところにこそ、 暴力性があると主張したい。

しかも、その暴力性を自らの中に認め、 それを排除してしまった暁には 「自らの論理に基づく合理性」が 自分の観ている世界や他者に通用しないことを 自ら認めるような行為であり、 それは、そうした人々にとっては なんとしても避けなければならないことだ。

するとどうなるか。 「自分の理論」に非常にまじめな人が、それだけならいいが 他者をねじ伏せてでも自らの合理性に巻き込むようになる。


群れちゃいけないだけで、 悪い人とまでは言っていない。 むしろ、そう言った人々は 概していい人“すぎる”と言って過言でない。

ただ、その思考・行動スタイルゆえに 群れてはいけない、 ということを申し上げておきたい。