「他人に“いいこと”しないおれ、生きてていいよ」と「自立」のはなし

ちょうど一年ぶりに会った友人がいた。

どういうわけか話の中で僕が無職だった時の話になった。 たしか、乃木坂46の話から派生したはずだ。 僕が、日がなYoutube乃木坂46の動画を見て過ごしていた時期のことだ。

当時僕は

縁はあってもゆかりがなかった長野県にいて、 参加する社会がなかったその時の僕は 「生きてていい」みたいなことを 他人から承認してもらえるような状況にはなかったので、

「働かないオレ、他人に“いいこと”しないオレ、 それでも生きてていいよ」

という類のことを、 感覚として自分のものにすることに必死だった。

いや、本当はそんなことに対して必死になってる時点で、 相当追い詰められていた。

もちろんそうなった引き金を引いたのは 紛れもなく自分自身だったのだけれども。

自分自信に「無条件のナントカ」を与える ある種の「修行」は、その時に始まり、 今もなお、続いているような感じがする。

ただ、その時に得た 「『悟り』のかけら」というのがあって (どうか、笑ってくれ!)

(ちなみにこれは、ふとしたきっかけで いつでも壊れてしまいそうなほど、脆いものである)

それからというものの、 大切にしている一つの指針がある。

それは

「他人に“いいこと”をすることに 自分の存在理由(みたいなもの)を求めない」

というものだ。

もちろん、「他者貢献感」こそが重要、とは 今流行りのアドラー心理学にもある。 「他者貢献感」と「居場所」と「幸福感」、 これらの関係も理解できる。

ただ、自らの「他者貢献感」のために、 「他者貢献」、それが誠実な自分の行動の「結果」ではなくて 「自分が幸福感を得るため」の「手段」になってしまったら どうなるだろうか?

僕たちは、途端に 「(必要に応じて、でなく) 自分の思ったように 貢献“されてくれる”他者」 の存在に依存し始めるようになる。

もしも、「支援者」と呼ばれる人たちが それをするようになったとしたら、

もうその瞬間からその「支援者」たちは 「“被”支援者」の存在なくしては、 「自分がそこにいて良い理由」を見出せなくなってしまう。

(相手の自立をサポートする立場の人たちが、 自立“しないでいてくれる”他者の存在に依存するとは、 まことに皮肉なことだ)

だから、これは誰でもそうなんだけれども 「支援者」と呼ばれる人たちはなおさら

他人に“いいこと”をするということに 自分の存在理由を求めてはいけない

と、僕は思っている。

「他人に“いいこと”をする自分」 それももちろんケッコウだが、

(わかるぜ、おれも、 誰かに「いいこと」してみたいモンだ)

まず、(精神的には) 働いていなくてもいい、 他人に“いいこと”しなくてもいい、

あなたとわたし、それぞれの自立は

まず「自分にいいことをする」自分に

「オレ、生きてていいよ」

というところが出発点だ。