「いま、輝いている」。たとえ目標の途中でも。

「あなたには何か目標はありますか?」

そう聞かれたとき、大なり小なり「目標を持っている」という人が 大多数ではないだろうか。

そして、「その目標を達成していない自分はまだまだ未熟である」 そんな風に思っている人もまた、大多数ではないだろうか。

だが、「目標に向かうその途中の段階ひとつひとつが それぞれの完結した『瞬間』である」ーそんな風に考えたら、 何かの「途中」でもない、時間軸にとらわれない「今の自分」を もっと肯定的に受け入れることができる。 ひいては、自己肯定感を持って、前を向いて走り出すことができる。

アドラー心理学について書かれた本『嫌われる勇気』には こんなことが書いてあった。

●「キーネーシス」的観点 目的に到達するまでの道のりは、 到達していないという意味において「不完全」

●「エネルゲイア」的観点 「いまなしつつある」ことがそのまま「なしてしまった」ことである →過程そのものを、結果とみなす

最近のニュースで言うと・・・ 軽井沢バス事故が発生した当時、メディアは亡くなった学生について 「未来ある若い命が」と言って、学生の将来の夢をあたかも 事故を起こした会社やそのような結果を引き起こすきっかけとなった 社会のひとつひとつの歪みに対する「あてつけ」のように報じた。

しかし先述のエネルゲイア的視点に立つと(誤解を恐れずに言えば) 20や21でその短い生涯を終えようとも、彼らは輝いていた。 大学生という身分で、自分の目の前のことを楽しみ、 自分の目の前のことに対して悩み、もがいていたはずだ。

他には・・・全国で優勝することを目標に掲げて 日々辛い練習をしている学生たち。 「今のままじゃダメだ、もっと良くしなくては」と、 自分の内なる気持ちから、もしかしたら指導者から言われて、 現状を否定しながら一回一回の練習を終えている。 「目標」という観点からは、現状はまだ遠く及ばないかもしれない。 でも、そうやって日々何が正しいのか分からなくとも考え、 練習している。

そういう彼らは、間違いなく、そのとき輝いていた。

(もちろん、大学生に限った話ではないけれども。)

アドラーは人生設計は、「そもそも不可能なものだ」とした。

「今、自分にできることを、丁寧にやること」それしかできない とも言った。

その結果思った通りに行くかもしれないし、行かないかもしれない。 思った通りに行かなかったおかげで、 かえって面白い結果が生まれるかもしれない。

ただ、できるのは「今できることを、真剣かつ丁寧に」やること。

「それが将来にどう結び付くか」 「目標に対して遠く及んでいない自分はまだダメだ」

そんなことを考えるよりも、 「今できることを、真剣かつ丁寧に」やっている自分や他人を 「いま、輝いている」ものだと認め、尊敬したい。

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