告白

言われたことを、言われた通りににきちんとやることは、本当はそんなに難しいことじゃない。 だけど、どこか僕は「きちんとやる人間」になることを恐れているところがある。 というか身体がそうなることを拒否しているところがある。

自分で言うのもあれだが、大学4年目までは、組織の中では割と「できる」側の人間だったように思う。 自分が一生懸命やった結果、出来るようになったのだから、他の人にも自分と同じように努力を求めてしまった。 他の人たちだって一生懸命やっていたはずなのに、それに目を向けることなんてしなかった。 「自分がここまでできるようになったんだから、君たちもできるはず」と言わんばかりに。(傲慢極まりない)

ただ僕はいわゆる生真面目で、よくも悪くも手を抜くことが「できない」人間だったから、 何かとリーダー的ポジションになることが多かった。

ただそうやって、「模範」(とやら)を“見せつけるように”、 大なり小なり組織のリーダーシップをとっていった結果、他の誰も楽しそうにしていないことに気がついた。 そう、僕はみんなのやる気の源である自主性を、アタマでは求めていたはずなのに、 自分の言動の結果全部摘み取ってしまっていたのだ。

それに気づいたことは、指導者からこっぴどく怒鳴られるよりもショックだった。 自分の正義が、周りの人たちを傷つけてきたことが、ただショックだった。

僕はみんなが自主的に頑張っていることを、自らの自主性という名のもとで奪い取ってはいけないと、かつてのトラウマに苛まれるように強く思うようになった。僕はみんなが頑張っていないところ(あまり進んでやりたがらないこと)を探しながら、自分の自主性をどんどん発揮しても誰かのポジションを侵害しない行動をとるようになった。 そうやって、組織の中で他の人が当たり前にできるようなことを、どんどんやらなくなった。 するとどんどん出来なくなっていった。 普通の人が当たり前にできることを、どこか期待のような不安のような目で見られていると、 それを当たり前のようにこなすことを、もはや身体が拒否しているようにも感じられるのだ。

それは大学時代の終盤になってからのこと。 それからというものの、僕は組織の中では割と「できない」側の人間になってきたような気がする。

そういう中でいくつか心境が変わった。

自分ができないからこそ、感謝の気持ちを持てるようになった。 周りの人たちが、自分のできないことや自分の気付かなかったことをやってくれるおかげで、 組織がスムーズに回っていることが分かった。 たとえできないことで嫌味を言われても、彼らに感謝の気持ちを持って、「よろしく頼んだ!」とやる。 それまでは、自分が全部できなくちゃいけないと思っていたのに。 できないことで、周りに迷惑をかけてしまうことも当然ある。 でも、結構「やらかした」時もなんとかなってきた。 それは間違いなく僕の出来ないことをフォローしてくれる人たちがいたからこそだった。 (快くフォローしているかどうかは別として。笑)

自分ができないからこそ、「できない」人、知らない人の立場になって考えるようになった。 今の職場じゃまだまだ僕は経験が浅く、「外の人」だ。 だからこそ、よそから見学や研修に来た人が、たとえ酒造りについて知らなくても、 僕は職場の他の誰よりもいい意味で「素人目線」で話をすることができるし、 諏訪という地について・諏訪人の気質について、「よそ者」目線で話をすることができる。 バイトで同じ職場に入った人にも、すぐにできるようになるよう迫らないで、 「それ、おれだってうまくできないからね笑」とか、 「できなかったら、おれもうまくできないなりにフォローするぜ!だから、まずやってみようぜ」 という心意気で接するようになった。そもそも自分が「できない」側なのだから威張ってもしょうがない。

自分ができないと分かっているからこそ、この先ストレスを溜めこまずに生きていくには「自分を許す」ことが必要だと分かった。 「できない」自分を許しているから、「できない」他人も許すことができるようになった。 「できないことを克服して、出来るようになれ」と、自分に対しても他人に対しても根性論を押し通すのではなく、 「じゃあ、その分自分の(相手の)長けていることは何か?その分野で頑張ってみような」と思うようになった。

当然、周りが当たり前にやってることができない(身体がやりたがらない)ことで、 組織の中ではマイノリティ側に立つことは避けられない。 しかし、この状況にいる自分を許し、たとえ認められなくとも自分の長所を自分自身が見出し、きちんと心に留め、 時々へこむこともありながら、生きていく強さを身につけていくこと。 そっちの方が孤独な戦いであり、「言われたことをきちんとやること」よりもよっぽど難しい。 それでも、それを貫いた暁には、自分が自分らしく生きやすい環境ができている、と信じている。

もちろん、僕は生真面目だ。できることなら普通にきちんとやりたい。 でもやりたくない、という葛藤がある。