発信者の意図を考えよ―まさか、それ普遍的だと思ってないですよね?―

「おっぱいを触らせたくない理由なんて存在しない」?

お笑い芸人・バカリズムのコントに 「おっぱいを触るのを論理的に正当化しようとする」 というのがある。

あの手この手の屁理屈で同僚の女性を論理的に説き伏せた揚句、

「おっぱいを触らせたくない理由なんて存在しない」

という結論に導いて、めでたく(?)おっぱいにタッチする という男子諸君なら明日から使いたくなるコント。笑

そこから読み取れるのは、どんなに理屈をこねてでも、 「おっぱいを触りたい」という意図があるということだ。


情報の発信者とその意図を想像したうえで、 自分で吟味せよ

言うまでもないことだけれども、 メディアには色々な情報が溢れるほどに存在している。

(僕も「溢れさせている側」の人間の一人だ。)

今日主張したいのは、 どんな情報にも情報の発信者の存在があって、 その情報について

「そうしたい」「そう思ってもらいたい」 「そうでなければ自分にとって不都合である」

といった意図が潜んでいるということ。

そうと分かって発信者の意図が想像できれば、 メディア・リテラシー(情報の読解・活用能力)が上がる。 平たく言えばいつもの通り「自分で吟味しよう」ということ。

(自分も情報の一発信者としてこれについて述べてしまうことは、 手の内を明かすようでちょっとドキドキしている。)


その情報、 まさか普遍的だと思ってないですよね?

ネットサーフィンをしていると頻繁に出くわすのが 以下の類の記事。

まとめ系メディアならこんなの。 「いつまでも結婚できない女の特徴3つ」 「いつまでも二流の人に共通する行動7つ」 「一流の人は必ず実践している習慣8つ」

ビジネス系のメディアなら 「こんなに違う!?年収別幸福度」とか。

あとは、ドキュメンタリーでしばしばとりあげられるのが 「夢を追う人はこんなにも経済的に困窮しているが悲壮だ」 みたいな内容。

その「特徴」とか「習慣」とか、 「悲壮感」(お笑いユニットは「悲"愴"感」)とか 「年収と幸福の相関」とか、

まさか、普遍的なものだと思ってないですよね!?


書き手の意図を考えれば、惑わされない

上記の例について、書き手の意図を考えてみよう。 かなり意地悪な目で見れば、

「いつまでも結婚できない女の特徴」を書くひとは、

「だから○○ちゃんは結婚できないのよね~ (一時はアセったけど、 ワタシはなんとか結婚できて良かったわ(汗))」

たぶんそんな風に思って、その○○ちゃんの 悪口を書いているだけかもしれない。

「二流の~」とか「一流の~」とか書くひとは 「一流の人」に対する強いコンプレックスがあるか、 「なんとしてでも自分は『一流』側でいたい」と思いたい人。

「年収別幸福度」をとりあげるひとは、

「実は1000万を超えると幸福度が下がる」みたいな ことを示しては

「あ、おれは800万円でよかった」 みたいなことを、相対的なモノサシを持ち出して来て

「800万円の自分が社会的に見ても『幸せ』でなければ 都合が悪い」と思っているひとかもしれない。

ドキュメンタリーで 「夢を追う人は貧しい」「悲壮だ」 みたいなことにフォーカスする人は

「きっと夢があったのにそれを追わなかった 今の自分の現状に満足したい人なんだな」と 見ることができる。

だって、本当に応援したければ その明るい部分を中心に取り上げればいいのにね。

自虐で書いているのでない限り、 自分に都合の悪いことは書きませんから。

こんな風に見てしまえば、

「結局、あなたはそう思いたいのね」

というかなり冷やか(?)な目で 冷静に見ることができる。


おわりに

情報には必ずその発信者がいて、

「こう思いたい」「こう思ってほしい」 「こうでないと都合が悪い」という気持ちがある。

そうわかれば、どんな発信者も 「かわいいね」と冷静に見ることができるし、

受信した情報に対して、 自分の経験を踏まえて「あーなるほどな」と 思った部分「だけ」取り入れれば、 きちんと自分の言葉で根拠を示せるような メディアに左右されないオトナになれるんでは。

<おまけ> バカリズム「おっぱいを触るのを論理的に正当化しようとする」