「頑張り」という免罪符

「頑張り」という免罪符

最近雨が続きますね。

僕が学生時代に部活に所属していた頃も、 天気があまりにも悪くて練習ができない日がありました。 そんなときは予定していた練習メニューよりも 「キツい」メニューに置き換わるケースが大半で、 それによって僕もなんだか「赦される」ような気がしていました。

「キツいこと」を「頑張ること」が 「免罪符」のように感じられたのです。

その証拠に、結果的に「あれ、楽だったな」 と思ってしまったら、今度は「これでいいのかな」 という気分に苛まれました。


誰に対する「罪」なの?

その「免罪符」という感覚、 理屈からすれば「??」なんです。

練習の結果を最終的に受けるのはあくまでも 自分なのですし、

「ムリして体調を崩してもいけないから、 今日は思いきって休むか!」

と言ったっていいはずです。

ていうかそもそも誰への「罪」なの?

ということなんですよね。理屈では。。

(「理屈では」というのは、僕がその当時 頭で分かっていてもその気持ちを拭えなかったから)


「頑張らない自分」と向き合わなければならない

ちょっと話は変わりますが、 僕のニート生活も1ヶ月が経ちました。 (来週から非正規で働き始めますが。。)

そうすると、そりゃあもうやっぱり 「罪悪感」みたいなものにスゲー苛まれるわけです。

「他の人は仕事をしているのに、自分は何をしているんだろう」 みたいな。

(ただし、解決のソリューションが「就職する」 になってしまったら、僕はちょっと前まで もともと正社員だったわけですから 根本的には意味がないんですが。。)

とはいっても、 その気もないことを一日中している訳にもいきません。

言い訳みたいに聞こえてしまいますが、

「頑張らない自分」と向き合い、 「免罪符」がなくとも自分を許さない限りは、

結局本当の自分の心の声を聞くことなんでできませんし、 「頑張ること」以外の、本来の目的や方針を見失ってしまいます。


「その日の」ベストは何か?を考える

もちろん、「頑張る」と強く関連付けられる 「ベストを尽くす」のはいいことだと思うんですよ。

(一時期は「なぜベストを尽くさないのか?」みたいな フレーズが流行りましたね。捉え方によっては恐ろしい笑)

ただし、ここで言いたい「ベストを尽くす」には条件があります。

身体・天気・気分など、あらゆるコンディションを考慮して

「その日のベストは何か?」

という問いのもと導きだされたものであり、 自分が、それをベストだと信じて認めたものであるということ。

それはひょっとすると他の人の目からすれば 「苦労している」という意味での「ベスト」として 映らない可能性もあるため、時には孤独になります。


「キツいことを、頑張る」のが一番ラク

「キツいことを、頑張る」のは その文字からは想像がつきませんが、 ぶっちゃけ、選択肢としては一番ラクなんです。

まったく頭を使う必要がありませんし、 「なんかやった!」という気分のオマケまでついてきます。

しかも、周囲から認めてもらえる気もする


「キツいことを、頑張る」リスク

ただし、そこには非常に大きなリスクが伴います。それは、

「頑張っている(苦労している)」という事実に依存し始める ということです。

「頑張っていれば、それでいい」みたいに思うと、 自分を追い詰めることそのものが目的になり、 本来の目的を見失ってしまいます。

それでいて、「ご褒美」とばかりに その場しのぎの「自慰行為」をしようもんならなおさら。

「普段大変な仕事をしているから、 自分へのご褒美に、グッチのバッグを買っちゃおう♪」とか、

「普段一生懸命ジムでトレーニングしてるから、 人気のパンケーキ食べちゃっても・・・いいよね?♥」

「普段キツい練習をしているから、 今日くらい頑張らなくていいよね」

そんな風に、 「大変な仕事」「一生懸命トレーニング」「普段のキツイ練習」を それぞれ「バッグを買う」「パンケーキを食べる」 「今日は頑張らなくていい」ための免罪符にしている、 ということは、それらの「罪」から逃れるためには また苦労をしなくてはなりません。

結果、「苦労すれば、いいよね」みたいになっちゃいます。 「苦労→消費→苦労→消費」のサイクルから脱しない限り、 それ以外の目的に向かうことができないわけです。

(もちろん、「バッグを買うのが人生の目的」とか 「パンケーキを食べるのが人生の目的」 「たまに練習を頑張らないのが人生の目的」という風に 完結している人には、これ以上最高なことはありません。 ラクだから。)

それだけならいいんですが、もっと辛いのは

その「苦労」に依存するあまり、

「もっと苦労しよう」「頑張ってる自分が、好き」 という自己暗示が行き過ぎた結果、自らの身心を害してしまうこと。

それから、他人の期待を満たすような表向きの「ベスト」を 尽くし続けることで、他人の人生を歩むことになり、 それを後悔すること。

そうならないためにも、「頑張れば、いいよね」 という安直な考えから脱却しておきたいですね。

しかし、これが難しいんだよなぁ。


長い目で考える

退職の直前、職場の先輩にこんなことを言われました。

「『こうしよう』と思ったら10年かけてやると思ったらいいよ。 そうしたら2年くらいで終わってるから。」

そう言われたとき、正直「は?」と思っていました。 「何で10年かけてやることが2年で終わるんだ?」

それをいま解釈するならば、こう。

「『達成には時間がかかる』という前提で、 長期的にゆっくりでも着実にと思って進めていけば、 意外と早く達成できるもんだ」

「すぐに結果を出さなくてはいけない」から

「達成には時間がかかるから、長い目で見ようぜ」へ。


あとがき

「自信」という言葉を聞いて、 どんなことをイメージしますか?

「『○○ができるから』自信がある」

「『こんなことを達成してきたから』自信がある」

そんな風に思う人も少なくないはずですし、 何かしらの条件「~だから」を根拠として 自信とするのは割と一般的だと思います。

そこには落とし穴があって、

「○○ができる」が自信の根拠なら それができなくなってしまった途端に 自信は失われてしまいますし、

「○○を達成したから」が自信の根拠なら、 もっと「すごい」ことを達成した他者の出現によって 一瞬にして崩れ去ってしまう可能性をはらんでいます。

そういう「自信」はあまりにも脆弱です。

究極は「何があっても」です。

「何があっても、自分は大丈夫」 「何があっても、自分を信じている」

そう思うためには、 「○○ができない自分」「○○が達成できなかった自分」

ひいては、

「頑張らない自分」と向き合わなければなりません。

(それでも根拠が欲しい? 強いて言えば・・・「自分だから」でしょうか。)

「頑張らない自分」と向き合ったうえで、

「しょうがないな。それでも、自分は自分であって、 それ以上でもそれ以下でもないんだよな。」

というところに行きつくとしましょう。

それに心から感覚として納得して初めて、 「免罪符」に頼らない人生が始まるのだと思います。