やっぱり、頑張ってもいけないし、苦労してもいけない

今日、本屋で『ノンママという生き方』という本に出会った。 有名な精神科医香山リカ氏の著書だ。

概要によると、「ノンママ」とは 子供を持たない人生を「選び取った」に近い女性のことを指すらしい。

(「いつかは子供を」と思っていたにも関わらず いつの間にか子供を持つには年齢的・体力的に厳しい状況に なっていた、という「いつの間にか」型と区別している。)

この本では、「ノンママ」でいることによって

「あら、自由にお金や時間を自分のために使えていいわね」

というような皮肉を言われる可能性が指摘されていた。

さすがに面と向かって言う人はあまりいないと思うけれど、 心の中でそんな風に思う人は少なくないだろう。

その辺りを読むにつけて僕が思ったのはこうだ。

「ノンママ」を選んだ人に対して、 ズケズケと口を出す、または妬みを抱くような人は、

「ノンママ」をその人が選んだことによるあらゆる結果は その人のものであって自分とは関係ないはずなのに、

「こんなに苦労している自分」なのに、 どこか「報われない」ような気持ちがあって、

「ノンママ」が「ノンママ」を選んだことで 「報われて」いるように見えてしまったら、 大変面白くないのだろう。

これは「ノンママ」に限った話ではないけれども、

「こんなに苦労しているor頑張っている自分」

というのが強く心にあると、

他人の楽しみとか、他人の喜びに対して嫉妬心が生まれる。 他人のことはあくまでも他人のことなのに、まったく面白くない。 それどころか「他人の不幸は蜜の味」だ。

それだけならいい。

もっとマズいのは、そこから生じる劣等感から、 自己認識におけるクオリティ・オブ・ライフが下がること

そういう意味でも、 「頑張ること」や「苦労すること」に"逃げ"てはいけない

そう、ラクにやれる方法を考えたり、 「頑張らない自分」と向き合わずに「頑張る自分」だけを良しとしたりして

ただ頑張るのは、もはやそっちが「逃げ」だとすら思いますね。

回りから見て「頑張っている」と勝手に思われるのはヨシとして、

自分の意識として 「頑張っている」「苦労している」と思ったらアウト。