自分は、不完全である。だから組織が機能する。

組織は素晴らしい。

一人ではできないことが、できるようになる可能性を備えているから。

ただし、そこには条件があって

お互いが不完全であることを認めて、それを補い合う

ということが成り立っての話である、ということ。

ただ、残念ながらそれが成り立っていないケースがある。

「僕はこれは得意だけど、これが不得意だ」

という現実があるにも関わらず、

一人一人がバランスのとれた人間でなくてはならない、

言うなれば

五角形のパラメータを、正五角形を保ちつつ

そのサイズを大きくしていかなければならない

みたいな風潮がある。

それは、誰が欠けても同じように結果を出す

という前提のもとにあるのだろう。

僕たちを「生産マシーン」ととらえたなら、それも一理ある。

ただ、残念ながら、正五角形であろうとしながら

そのサイズを大きくしていくことに注力したならば、

「マシーン」という例えの通り、結局自ら

「交換可能な存在」になる

という、おそらく本人が望んでいないような方を向いている

というパラドックスが生じる。

それを食い止めるには、「やっぱり、自分にもできないことがある」と

不完全である自分を受け入れたうえで、

「自分は不完全である」ということを認めると同時に

「自分は不完全である」ということを周囲に積極的に知ってもらう

必要性がある。

ただ残念ながら「できないことは、努力でできるようになれ」

という風潮がかなり強い社会だから、多かれ少なかれ

「自分は努力でできなかったことをできるようになってきた」

と思っている人たちにとっては

「できないことは、もっとできる他の人にやってもらおう」

という考え方は、怠慢に見えるかもしれないし、

自分たちのしてきた「努力」を否定されているようで面白くないだろう。

そういう人たちのいる組織のなかで

「自分は、できなくてもいい」

と唱えることは、孤独になる可能性がある点で、

そういう「残念な組織のなかにおいては」リスキーである。

ただし、忘れてはいけないのは、恐らく誰しも

不完全である=できること・できないことがある

ということはどんな組織文化であれ代わりのないことで、

その不完全な部分をお互いに補完しあう、という前提があってこそ

組織は素晴らしいと言えるだろうし、

それぞれが得意分野に注力でき、結果的により良く機能する

そう思うのです。