僕たちはきっと出会った人でできている

「純粋な『本当の自分』というヤツはないんじゃないか」 とときどき思う。

時間が許すなら どうか、「中2のセカイ」だと早合点して 眉をひそめずに聞いてもらいたい。

というのも、 僕はよく対人コミュニケーションにおいて

これまでに出会った人々の 話し方、仕草、その他振る舞い方の うまく言葉で言い表せない絶妙な

好感を持てる言語・言外のコミュニケーション手法を その時々、状況に応じて 「借りている」と思うことがしばしばあるのだ。

卒業以来会っていない 中学校の一つ年下の後輩の、 ちょっとやそっとじゃ動じない感じの クールな振る舞い方。

写真を通じてしか見たことのない 部活の後輩の、 嫌なことを蹴飛ばすような 眉間に皺のよる笑顔。

一年半だけ一緒に働いた上司の 独特の間の取り方、 立場上、上から目線でありながら 他者へのリスペクトを失わない眼差し。

2ヶ月でやめたバイト先のチーフの、 マネージャーでありながら 細かいことを気にせず 「やりやすさ」を重視してくれていた 優しさと管理職としての厳しさ。

4年前にいたバイト先の後輩の、 そそっかしい僕をたしなめたり、 時にはバカにしたりしつつ、 それでも(先輩後輩を超えて) 他人を尊敬する立ち回り方。

6年前に出会った学生時代の部活の先輩が、 決して話し上手には思えなかったけれども 大事なことを、言葉を選びながら 目をパチクリさせて真剣に語る感じ。

ここでは書ききれないほど、 これまで出会った人の中に 「あ、これいいな」と思える振る舞いを見つけて それが、必要に応じて 自分のコミュニケーションの時に ほぼ、無意識的にひょっこり顔を出す。

それらが、誰か他の人から見た ひとりのソリッドな存在としての 「自分(筆者のこと)」を形作っていても、

筆者からみれば、その「自分」というのは 全く純粋なものではなく、 これまでに出会ったたくさんの人の振る舞いを 借りまくった、ごちゃ混ぜになった存在のように思う。

「本当の自分」というと 「他人には見せない部分の自分」みたいなところに 目が行くことが多い。

いや、そりゃあ他人がいないところで グータラしていることもあるし、 他人には見られないような弱点も、 他人にはあまり言えないコンプレックスもある。

しかしそれすらもきっと、 「本当の自分」と言うには説得力に欠ける気がする。

もしも、 これまでの話をもとに 「本当の自分」を無理やり定義するならば、

これまでに色々人と出会ってきたなかで、 その人々とのコミュニケーションの中から 「いいな」と思う振る舞い方を都度「借り」ながら

決してその形を定めることのない ひとつのコミュニケーション主体

ということになるだろう。

「あ、あの人の仕草を『借りて』いるな」と思うたび、 あの人も、この人も、あんな人まで、 「自分の中で生きている」と思う。

それって、意外と、意外な人ばかり。