「『オーソライズド』な趣味」という概念のはなし

「社会性のある趣味」 「属性を問わず楽しめそうな趣味」 「教育上良さそうな趣味」

それらを僕は勝手に「オーソライズドな趣味」と呼んでいる。

もしも、流行りの「オープン・コミュニティ・スペース」があるとして、 その「オーソライズドな趣味」ばかりを歓迎したならば、

結局は一部の「”社会性のある”ひとたち」しか 集まることのできない、クローズド・スペースに なってしまわないだろうか。


話は最初に戻る。

僕が「オーソライズドな趣味」と呼んでいるものには ギターやピアノを弾くことも含まれるし、 ゲームならトランプや将棋、オセロもそうだ。 あとは、スポーツもそう。読書もそうか?

いわゆる、「趣味」欄に書くことができそうなものや、 年齢性別を問わず他人を巻き込みやすいもの、 そんな風に説明したら通じるだろうか。

その一方でいわゆる「オーソライズドでない」趣味の 代表格は、ゲーム機やスマートフォンを用いたゲームだろう。

あとは、独自のルールがあり、自前のデッキを持っていないと遊べない トレーディングカードゲームもその類に含まれる。

「国民的」なレベルでないアニメや漫画もそう。

オーソライズドでない」趣味に興じながら、 その場所にいる人と 言葉によるコミュニケーションをとっているわけではなくても、 「話さなくても、人のいるところにいたい」 というメッセージ存在可能性を行動から伺い知ることができる。

それを、簡単に「スマホばかり」「ゲームしてばかり」 と排除するような感覚には、しばしば「ちょっと待ってくれ」と、 ・・・言わないけれども、そんな気持ちになる。


僕たちは特に気にしていなければ容易に 「オーソライズド」な趣味を 「他人とのつながりづくりや、他人とのコミュニケーション」に役立つから という安直な理由づけから「上位の趣味」として 位置づけてしまいがちだ。

いや、気をつけていたって、そうかもしれない。

そうなれば

たとえ、「オープン・コミュニティ・スペース」という概念を掲げたとしても 結局、「オーソライズドな趣味」を楽しめるような 一部の”社会性のある”コミュニカティブな人しか、 そこに集まることができなくなる。

たとえ相手の「オーソライズドでない趣味」を 全て受容できるかどうかは別として、 少なくともその存在を肯定できるような そんな雰囲気の中にこそ、「オープン」の概念が 中身を伴ったものになる。